「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」2月号より

涙ながらに

牧師 石橋秀雄

「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」
(コリントの信徒への手紙2 2章4節)

 涙ながらに祈るということが、信仰生活の中であると思う。私たちの、涙ながらに祈る 時とはどういう時だろうか。
 大きな苦しみの中にある時、愛する者が大きな苦しみの中にある時、涙ながらに祈るということがある。
 パウロはしばしば、大きな悲しみの中で、涙ながらに祈っている。パウロの悩みと愁い、涙ながらに書く手紙、そこに示されるパウロの悲しみ、それは、コリント教会の信徒たちへの「あふれる愛」(4節)からであることが示されている。
 あふれる愛の故に涙を流して、悲しみの中に祈るパウロの姿がしめされる。愛するが故に悲しんでいる。深く重い、深く愛する時、悲しみがそれに伴うことがある。
 パウロが愁いと悲しみの中で流す涙とはどういう涙であるのだろうか。パウロはコリントの教会に自分は「喜びの協力者」(1章24節)であると語っている。パウロの語る福音はパウロの喜びであると共に、コリント教会の人々の喜びであり、すべての人の喜びである。
 この喜びについてエフェソで、パウロは「3年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきた」(使徒言行録20章31節)と語っている。さらに「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」(フィリピ3章18節)と語っている。ここにパウロが流す涙が記されている。
 パウロは涙を流しながら、一人一人に3年間語りつづけたのだ。何とか「本当の喜び」を知って欲しいと、コリント教会に涙を流して手紙を書いている。その理由は、この「本当の喜び」に背を向けている者がいるからだ。コリント教会の一人一人を愛するが故にパウロには耐えられないことなのだ。
 このような十字架の福音から外れておることに対して、このように愁い悲しみ涙を流しているパウロを見つめながら、私たちの流す涙は本当に流すべきことに涙を流しているだろうかと思わされる。
 私たちも、「喜びの協力者」となりたい。福音は本当の喜びである。どんな問題の中でも失われることのない本当の喜びである。この私の喜びである福音が、教会の兄弟姉妹の本当の喜びとなるように協力しあう教会の交わりをつくっていきたい。そのために涙を流して祈りあう本当のキリストの愛に満ちた教会の交わりをつくっていきたいと思う。

<ひとこま聖書>
「はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。
今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、
あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。(サムエル記上1:1〜20)




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