みことばに聞く
    
   「起きよ、生きなさい」

 

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
(ヨハネ福音書5章8節)


  ニュースでピアサポートについての報道を見た。絶望的病の中にある人が、その病の中から同じ病に苦しむ人をサポートするのだ。
 「あなたは、必ず抜け出せる。わたしもそうだったから。あなたは一人ではない。わたしは、あなたの人生をあきらめさせない。なぜなら友だから、友情は宝だと思うから」
 治癒不可能な難病に冒され、生きる希望を失っている人にとって、これほど心強い言葉はない。
 ベトザタの池、この池は人間の苦悩が、病という不幸を背負っている人々が集まってきている。「池の水が動くときがある。その時、真っ先に飛び込むものは、癒される」と伝えられていたからだ。ここには、そばにいる者は競争相手だ。周りにいる人々は、自分の可能性を奪う人々だ。隣にいる人を信じることができない。哲学者サルトルは「地獄とは他人のことである」と言ったそうだ。ベトザタの池の側はまさに、この他人、まさに地獄だ。
 38年間この池の側に横たわって生きてきた、病気に苦しむ人がいた。38年間「他人の中で地獄を味わってきた人」だ。38年の間に、癒される人を見てきた。今度こそはと思っても、後から来たものが飛び込み、この人はいつも遅れをとってしまう。強いものが生き残るという社会の姿が、この弱さを背負う人々に中にも現実としてあり、地獄の苦しみを味わっている。この人は深い孤独の中で人生をあきらめきっている。それでも、この人は、この池の側にいる以外に居場所がない。

 この人のところに主イエスは、近づかれる。そして、主イエスは命令される。「起きよ。生きよ」との力強い命令の言葉が響く。起きるということは目覚めることだ。主イエスは目覚めることを命令される。命の主イエスがそばにおられる。この主の世界に生かされていることに目覚めることが求められている。この命の主の言葉が響いているのです。命の主イエスが、「起き上がれ、目覚めよ、生きよ」と命令されるのだ。主イエスは生きる希望を呼び起こす。
 「新しい世界に歩きなさい。生きなさい」と命令される。この人は主イエスの命の言葉によって立ち上がり自分の足で歩いて行った。この力の主の言葉は、私たちにも響いている。


  

  教会報「みつばさ」2003年2月号より




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