みことばに聞く
    
   「今やその時」

 

「はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。
今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
(ヨハネ福音書5章25節)

 私達の生きる現実は、命を脅かされたり、命を削ると思いをする問題に満ちている。
 病は私達の健康を奪い、生きる力を奪っていく。自分の中から元気に活動する力が奪われていくことは、悔しいことであり、情けなく寂しいことだ。
 誰でもやがては命を失うときが来る。
 そのような私達に、主イエス・キリストは、決して奪われることのない「永遠の命の道」を指し示し、さらに「決して神から裁かれない」と救いの中心について語って下さる。
 旧約の預言者達は、不正や偽善や暴力について天地がひっくり返る問題として大騒ぎする。私達の社会では日常茶飯事の事、気にもとめない事に大騒ぎし、怒り悲しむ。
 それは神がお怒りになるからだ。神が悲しまれるからだ。どのような罪も神は裁かれる。神が怒り、裁かれる。それは天地がひっくり返るほどの問題だ。
 私達の罪に神ごお怒りになるとしたら、私達は、この神の怒りの前に吹き飛んでしまう。だれが、神の怒りから自由であることが出来るであろうか。しかし、主イエス・キリストは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(24節)と約束してくださっている。
 主イエス・キリストは、神の怒りを、裁きを、私達に代わって受けてくださった。主イエスを信じる。ただただ主イエスを信じる信仰によってのみ「永遠の命を得、もはや裁かれることなく死から命ヘと移っている」と約束されている。「移っている」この「神の声を聞くときが来る」「今がその時」と強調されて語られている。
 「永遠の命を得ている。裁かれない。死から命に移され、生きる」。「今がその時」なのだ。やがて与えられる永遠の命、しかし「今、神の言葉を聞き」「今、永遠の命が与えられ」「今、生きる」と語られている。今、「永遠の命」を受けているものとして生きることが出来ると語られている。命が削られ、脅かされ、奪われる問題のただ中で、決して奪われない神の命をいただいた。
 命の言葉を聞いて生きることが私達の力であり、喜びだ。


  

  教会報「みつばさ」2003年3月号より




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