「『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、
イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を
信じること、それが神の業である。』」
(ヨハネによる福音書6章28〜29節)
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ヨハネ福音書の主題は「見ないで信じる」ということだ。しかし、それでは、見た人々はどうであろうか。六章の初めには大群衆の中に主イエスはおられる。主イエスは「五つのパンと二匹の魚」で男だけでも五千人もの空腹を満たされた。この主イエスを見た。その業を見た。しかし、彼らは主イエスを信じなかった。六章の終わりには大群衆は去り、十二弟子だけが主イエスのもとに残ったことが記されている。見ても信じることができない。主イエスを信じる者になることが神の業であることが強調されている。
「『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」(二八〜二九節)
最初に「何をしたらよいか」と問うている。神に近づくには、神と正しい関係を持つには、救われる為には「何をしたらよいか」と問われている。
わたし達も「何をしたら」と考えることがある。しかし、人間の側から神に近づくことはできない。人間がどのように努力しても、どのような善い業と思えることをしても、神に近づくことはできない。神と人間との間には越えがたい壁がある。罪という壁がある。人間は見たのに、その業を知っているのに信じない。
二九節の「神の業」という言葉に注目させられる。この一つのことが神の業だと強調される。
「神がお遣わしになった者を信じる」このただ一つの事が神の業だと語られている。
主イエスを信じるようになることが、神の業だ。主イエスを信じる者になる、そこに神の業があるというのだ。
主イエスご自身が天からのパンだ。命のパンだ。このお方のみを見つめる。このお方を信じる。主イエスを見つめ、このお方を信じるところから、わたし達の人生を支える力、わたし達の命を支える糧が与えられる。
わたし達が主イエスを信じるところに神の業がある。
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