みことばに聞く
    
   「時は来ていない」



「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。
しかし、あなたが たの時はいつも備えられている。』」 
        (ヨハネによる福音書7章6節)

 歴史を動かしているのは人間と思われている。
 権力者が「自分の時」とばかり、権力を用いて世界を動かす。まさに人の時、人間の時、そういう時の中に多くの人は生きている。しかし、聖書はもう一つの時を示す。主イエス・キリストの時、神の時だ。
 主イエス・キリストのところに主イエスの兄弟達がやってきた。
「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。」(3節) 
 母マリヤ、父ヨセフのもとで主の兄弟として育った者達がいる。主イエスの働き、力ある業を見て、エルサレムに行って、「今こそ立つ時、世に出る時、その力を見せれば、人の上に立って支配できる」と兄弟は考えた。兄イエスを世に出して、自分達も世に出る時と考えた。まさに人の時の中に主の兄弟達は生きている。この、人の時を、主イエスは拒絶される。
「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。』」(6節)
 今は人の時の中にある。人の時の中で起こること、それは主イエスへの拒絶と抹殺だ。主イエスの兄弟達も「主イエスを信じていなかった」とヨハネは伝えている。
 主イエスの身近なところで、主イエスへの無理解と拒否がある。イスラエルの指導者は、主イエスを殺そうと動き出している。人の時の中で、主イエスは生きる場を奪われていく。多くの弟子達は主イエスから去っていく。主イエスの時など来るはずが無いと思う人が支配する、人の時の中で人々は生きている。身内の者、弟子達まで、全てが人の時の中で主イエスから遠のき、主イエスは孤独な歩みをされていく。
 しかし、人の時であることが頂点に達した時、まさに、そこで、主イエスの時、神の時が強烈に示されていく。主イエスは捕らえられ、十字架にかけられて殺される。まさに人の時であることを思い知る時、ローマ皇帝が世界を支配し、総督ピラトがイスラエルを支配している。神に逆らう力が頂点に達し、主イエスを十字架で抹殺する。
 人の力と人の罪を思い知らされ、人が神から一番遠い時が、まさに主イエスの時だ!人の時の罪、この世の一切の罪を背負う主、弟子の罪、兄弟の罪、イスラエルの宗教家の罪、イスラエルの指導者、ローマの指導者、全ての人間の罪を背負われる主イエスの十字架。まさに、この時が、主イエスの時、神の時だ。主イエスの時、神の時は、決して救われないものが救われる時だ。
 神から一番遠い、救われる事など考えることも出来ないものが救われていく。
身内が救われるのは難しい。しかし主の兄弟ヤコブはやがて救われてエルサレム教会の指導者になっていく。
 主イエスの時は、 人の時を打ち破って、人が打ち破られて、罪が打ち破られて、とうてい救われない者が救いに与かる時である。

(絵:BELLINI, Giovanni)

  

  教会報「みつばさ」2003年9月号より


”月下美人”  教会員N家より




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