「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」3月号より

赦して 慰め 力づける

牧師 石橋秀雄

「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して力づけるべきです」
(コリントの信徒への手紙2 2章7節)

福音の中心は神の赦しだ。
赦すということはどういうことであろうか。赦されるということはどういうことであろうか。 赦されるということが力となるのは何故だろうか。
コリント教会に罪を犯した人がいる。この人が教会で裁かれた。 教会で裁かれる、神に裁かれるということはどういうことだろうか。 神の裁きは、この世の裁きとは違う。神が裁かれる時、 それは絶望ではなく希望である。イスラエルの歴史の中に激しい神の裁きが示される。
神に裁かれてイスラエルは国を失うということがあった。しかし、この裁きを通してイスラエルの民は生ける神に深く出会い、神は裁きを通して、赦す神、救う神であることが示されて行く。
 神の裁きは赦しと、救いと、慰めと希望につながるのだ。
 コリント教会で罪を犯した人が裁かれた。パウロは「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」と語っている。
 その裁かれた人が、これ以上悲しみに打ちのめされることがあってはならないというのだ。
 「赦す」ことが求められている。赦すということ、赦されるということは、どこで実感できるのだろうか。どこで力となるのだろうか。
 パウロは「赦して力づけるべきです」と語っている。
 口語訳聖書では「あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである」と訳している。新共同訳聖書は「力づける」と訳した。この言葉は本来戦場に兵士を送り出す時に使う言葉だとされている。兵士を力づけて戦場に送るのだ。
 竹森満佐一牧師は「失敗して、多くの人から避難され、処罰まで受けた者を赦し慰めて、再び立って、人生の戦いに向かわせる。ゆるしとはそこまでいかないと力にならない」と言っている。
 神の赦しとはそれほど徹底したものなのだ。罪から解放するだけではない、罪を犯した者、神から罪を示された者、罪のどん底に落とされ、裁かれて悲しみの深みにあるものを神はゆるされた。
 この神の赦しは、その人を励まし慰めて、力づけて、再び起き上がって人生の戦いに押し出していく。そして、私たちに対しても「赦して慰めて力づけなさい」と教えられている。



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