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(撮影:N兄) |
「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」
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(詩編90編10節) |
新しい年が歩みだされた。私たちは時間 の中に生きている。時間の中に生きるという事は、限界の中に生きているという事だ。 この時を詩編90編の詩人は直視する。
「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90編10節)
この詩人の時代は人生70年といわれていた時代だ。健やかであっても80年に過ぎない。瞬く間に過ぎ去る人生、瞬く間に時は過ぎ、死んでしまう人生だ。
「命あるものの悲しい性」。それは、必ず死んで行く存在であると言う事だ。1秒1秒刻まれる時の中に私たちの人生の歩みがある。しかし、もう一つの時がある。それは神の時だ。
詩人は神の時を知る者である故に、人間の時を、自分の時を直視できる。人間の現実を直視できるのだ。「時を越える」事はできない、「時は過ぎ」て行く。
神は時を越えた存在だ。
「世々とこしえに、あなたは神。」(2節)時間を越えた、永遠なる存在者である神。神は時間を越えるお方、時間に打ち勝つお方だ。
永遠なる神の前に、自分の、人間の本当の姿を詩人は見つめる。人間は神と無関係でいることは出来ない。聖なる神、大いなる神の前に生きる存在だ。神の光は人間の心の中まで照らす。そこで明らかにされる事は人間の罪である。神に逆らって生きる自分を、神を無視して、自分本位に生きる自分を、この罪を見つめざるを得ない。この時間の中に生きる私たちは、飛び去ってしまう存在、死んでしまう存在、神の前には塵にしか過ぎない存在だ。しかも、この私たちが神の怒りの中にあるとしたら、人間に救いはない。希望も喜びもない。
詩人は神の憐れみにすがって救いを求めて祈る。この祈りが主イエス・キリストによって成就した。主イエスは、「時を越える神」が「時を変える神」であることを示される。
神の怒りの時代から 慈しみの時代の中に生きるものに主イエス・キリストによって変えられる。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1章14節)とクリスマスにメッセージが響く。
神の怒りの時の中に、主イエスが飛び込んできてくださった。そして、十字架によって罪を赦してくださった。十字架は塵にしか過ぎない人間の為に命を献げて下さる神の愛が示される。まさに時を変える神の業だ。怒りの時、限界の中にある時、人間のはかなさを思い知る時から、神の恵みを深く知る時、神の恵みの中に生きる時、しかも、時を越えた永遠の命の世界に、この時がつながっている。限界を突き破る神の時に、私たちは生きるものとされたのだ。
新しい時代がどのような時代であったとしても、時を変えてくださった神、時を越えた神の世界につながる恵みの時に、私たちは生かされる。
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(「みつばさNo.236、1月号」より転載しております)
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