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憐れみ
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「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」
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(詩編103編8節) |
私たちが信じる神はどういう神であろうか。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」と示される。
詩編103編の詩人の人生の歩み、その信仰者の歩みの中で、さらに、イスラエルの歴史の中で、神はどういう神であるかということが示される。自分たちの信じる神は「憐れみの神、慈しみの神である」。この確信が語られる。
詩編103編3節から5節では「罪を赦し、病を癒し、命を墓から救い出し、慈しみと憐れみの冠を授け、良いもので満たし、鷲のような若さを新たにしてくださる」と感銘深く語られている。
罪と病と死、この三つは、私たちの重大な問題だ。罪は神との間の溝を深め、神を見失い、病気が人間を苦しめ、墓、死が人間を絶望の中に閉じ込める。
罪と病と死が人間を苦しめ、絶望の闇の底に人間を引きずりこんでいく。
この闇の中に神の憐れみが注がれる。
罪と病と死、この絶望的な闇の世界に圧倒的な力が示され、この神の憐れみの業によって人生が一変する。
「慈しみと憐れみの冠を授ける」とある。罪と病と死、その苦しみの中に、その闇の中に沈んだ時、心は渇ききってしまう。その渇いた心が満たされるのだ。神の慈しみと憐れみの冠が授けられるのだ。その時、人生が一変する。神の圧倒的な力で、命が注がれ、闇に沈んで渇ききった心が、満たされる。鷲のような力が与えられて、新たにされて生かされるというのだ。
イスラエル四十年の荒れ野の旅は、この神の憐れみと慈しみを深く知る時であった。
エジプトの奴隷から解放されて、四十年間荒れ野を旅して、今のパレスチナの地に定住する。この出エジプトの出来事で示されたことは、「主が憐れみ深い神」であるということだ。
「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」。この8節の言葉は出エジプト記34章6節以下に示されているところだ。しかも、イスラエルが金の雄牛を鋳造して拝む、偶像礼拝という考えられない罪を犯す、その只中で、この御言葉が宣言される。
この詩編103編はまさに福音を指し示している。
神の愛は罪と病と死に苦しむ者に対して燃え上がる。主イエスの十字架に、この神の強烈な愛が示されている。罪と死に支配されている人間を救うために神は十字架に苦しんでくださった。神の愛が十字架において燃え上がったのだ。憐れみと慈しみの神が、主イエスの十字架の救いの中に決定的に示されている。
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