香油の香りで一杯




「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香
油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪
でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになっ
た。」

    (ヨハネによる福音書12章3節)
      

 ラザロが墓に納められて四日目に、主イエスによって蘇らされた。この喜びに満ちた夕食の時、マリアはナルドの香油を主イエスの足に塗り、髪でその足をぬぐった。
 この行為が賞賛と批判を受ける事になる。
 批判は十二弟子の一人ユダによってなされる。
 ユダは三百デナリオンで売ったら、どれほどの貧しい人が、助かる事になるかと言って、マリアの行為を批判する。一デナリオンが一日分の労働賃金だといわれている。三百デナリオンは、約一年分の労働賃金に値する。非常に高価な香油である。
 しかし、お金の価値、この世の価値に換算できない価値が示されている。
 ラザロが墓から蘇る事ができた。主イエスの命が注がれた、この価値は金銭の価値に換算できるはずがない。それゆえ、マリアは自分の出来る最大の事をもって主イエスの愛に応答した。マリアの精一杯の応答である。その応答が家の中一杯に良い香りとして広がった。
 わたしたちの神の愛に対する応答が、精一杯の応答が良い香りとして、礼拝堂に広がったら、生き生きとした礼拝を捧げることがで きると思う。
 このマリアの業に対して、ユダは批判する。
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人にほどこさなかったのか」と。
 お金に換算するということは、この世で役立つか役立たないか、自分たちの世界で役立つか役立たないかという視点でしか考えていないということを示している。
 主イエスはマリアをほめている。ユダはマリアの行為を批判している。このギャップが問題だ。このギャップがユダをサタンの世界に、裏切りの世界に引きずり込む。
 マリアの行為は特別な業として、マリアの思いを越えて受けとめられている。主イエスは来週の金曜日には十字架にかけられて殺される。その葬りの用意として受けとめられている。
 ユダは、お金に換算して考える、この世の価値に換算して考える。その時、十字架の死、ここまで貧しくなられた主イエスには、なんの価値も見出さない事になる。この世の自分の生活には無関係ということになる。
しかし、実際に神の命をいただいたもの、主イエスの救いに与かったものは違う。そこには、主イエスによって、とうていこの世の価値では換算できない愛の恵みをいただいている。
 ラザロは墓から蘇らされたのだ。
 わたしたちの愛するものが、そして、わたしたちも、やがて、死んで墓に納められる。この墓から永遠の命の世界、神の世界につながるものとされるのだ。この世の価値で換算されない恵みの世界に招き入れ、主イエスの命の世界に生かされる。わたしたちも、精一杯の感謝の応答をし、礼拝において、良い香りで満ちる礼拝を捧げたい。

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