「主こそ王」という断固たる確信を持つとき「決して揺らがない」と告白されている。この断固たる確信は信仰の挫折をとおして与えられて行く。
イスラエルは信仰の挫折を思い知る民族だ。イスラエルはエジプトの奴隷から神によって救い出された。エジプトを脱出して、荒野を旅してシナイ山のふもとまで導かれた。モーセは神の言葉をいただくために山に上った。イスラエルはモーセがいない間に金の子牛をつくって拝んでしまう。偶像礼拝をしてしまう。これは、イスラエルの信仰の挫折だ。神を信じながら、金の子牛を拝んでしまう。この信仰の挫折した民を神は、憐れみ、導かれる。イスラエルは自分の罪を見つめ、その罪にもかかわらず、なお、憐れみ、導いてくださる神に出会って、断固とした確信に立つ。
「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。」(詩編93編1節)
威厳と力の神が「わたしの王として、わたしにつながってくださる」のだとすれば、自分の人生は「決して揺らがない」と断固として告白するのだ。 ペトロも挫折した。
ペトロは「あなたはメシアです」(マルコ福音書8章27節以下)と告白する。信仰告白が命であり、信仰者を支え、生かし、さらに、罪と闘う力である。「あなたはメシアです」「あなたは王です」と告白することが力だ。しかし、この「告白」をもってペトロは闘えなかった。 |
主イエスが捕らえられ、いよいよ十字架の道を歩まれる。捕らえられた主イエスは大祭司の庭に連れて行かれて、裁かれる。この中庭にペトロは忍び込んだ。他の人々の群れの中に忍び込んで主イエスを見つめる。
その時、「あなたも、あのナザレ人と一緒だった」と問われて、ペトロは主イエスを否定する。ペトロは三度主イエスを否定する。まさに、この時、ペトロは「あなたはメシアです」と告白した告白をもって闘うべきだった。「主イエスは王であり、メシアです」と告白をして闘うべきだった。
しかし、実際には挫折した。ペトロの信仰は挫折する。
イスラエルも、ペトロも、初代教会もこの罪を隠さない。何故なら、そこに自分を見たからだ。歴史の中の教会もしばしば信仰の挫折、信仰告白の挫折を味わったからだ。そして、神はこの挫折をも用いられて、導いてくださる主だ。主イエスはメシアなる王である。
ペトロは主イエスを裏切ったことで、泣いた。このペトロを復活の主は赦し、再び招き、使徒として立てていく。ペトロは主イエスの赦しと愛を深く知った。ペトロは断固とした確信に導かれる。
ペトロとヨハネは逮捕されて獄で一晩過ごした。そして、裁判の座に引きずられていく。イスラエル最高議会で裁かれる。ここには三度主を否定したペトロの姿はない。堂々と証言し、堂々と信仰を告白する。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)この告白でペトロや初代教会は生きたのだ。闘っていったのだ。迫害の嵐の中で、大波のように問題が押し寄せる中、この告白が、大きな力だ。
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(「みつばさNo.238、3月号」より転載しております) |