神の正しさの回復
(by Nakai)
「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。」 |
(詩編94編1節〜2節) |
神が報復の神として、受けとめられ、祈られている。報復という言葉に躓きを覚える人は、多い。
アフガニスタンで活動される中村哲医師から、アフガニスタンでは殺人などの凶悪犯罪が少ないと聞かされた。それは報復社会だからだ。愛する者を殺されたら、殺し返す。この報復の社会が犯罪の抑止力になっていると聞かされた。神は報復の神であるところに、この詩人の希望があると示されてくる。
「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。」(1節〜2節)
この詩人は「神は報復の神」と確信している。報復の神を信じることがどうして力になり、また希望となるのだろうか。
一五節に「正しい裁きは再び確立される」としるされている。報復とは、神の正しい裁きの確立だ。
わたしたちの報復は憎しみがともなう。しかし、旧約聖書の報復は憎しみではなく、神の正しさの回復だ。
社会が破綻してしまっている。秩序が破壊されて修復が困難な状況の中で、神の介入が求められる。憎しみに満ちて報復するのではない。神が正しい裁きを行われる。不正をした者を正しく裁き、神の正しさが明らかにされ、神が世界を支配しておられる事を示される。この神の業が祈り求められている。
神はかならず報復される。すなわち神は必ず神の正しさを示され、悪を滅ぼされると詩人は確信している。神の言葉を聞き、神の言葉を信じる人は「苦難のときを静かに待つことができる」(13節)と語られている。
「災いをもたらす者に対して、わたしのために立ち向かい、悪を行う者に対して、わたしに代わって立って」(16節)下さる神が、示される。だから、神の業を静かに待つことが出来るというのだ。静かに待つものを神は見捨てる事はない。
神の業を静かに待った、神はその信仰に応えて立ち上がり、助けてくださったという詩人の確信が告白されている。
もし主が助けてくださらなければ、沈黙の中に、死の中に沈んでいたと告白される。(17節) 苦難の中に足がよろめいてしまったとき、主の慈しみが支えとなった。(18節) この詩人の信仰体験が、示されている。
災いに対して、悪に対して、主が立ち向かってくださる。主がわたしたちに代わって立ってくださる。だから「わたしの今がある」と詩人は告白する。
最大の悪、最大の災い、それは、わたしたちにおいては、死と罪だ。罪と死に人間は、自分の力で立ち向かう事が出来ない。
主イエスの十字架に、神の正しさの回復が示される。罪と死が支配する世界をそのままにしないという報復の神の正しさが示される。人間の敵、罪と死を滅ぼしてくださった。わたしたちに代わって立ち、そして立ち向かいわたしたちを救い上げてくださった。わたしたちに真に苦難をもたらす者を滅ぼしつくされた、この十字架の愛が、毎日の生活で「足がよろめく」とき、支えとなり、苦難のとき、励ましとなり、そして、救われた喜びの中にわたしたちを支え、生かしてくださるのだ。
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(by Ayaka) |
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