涙を流す主




「わたしは、復活であり、命である。…
 イエスは涙を流された。」
    (ヨハネによる福音書11章25節〜35節)
      

 ロシアの南部の北オセチア共和国で、学校がテロ集団によって占拠されて多数の犠牲者が出た。痛ましい事件だ。怪我をした少女の手に十字架が握られていた。恐怖の中で十字架を握って救いを待っていた少女。救いを求めて震えながら祈る子どもたち。しかし、殺されてしまった子どももいるに違いない。
 神を信じること、祈ることが唯一つの拠り所だ。しかし、十字架を握って死んでいく子どもたち、祈りながら死んでいく子どもたち。神を信じること、祈ることを空しくしてしまう痛ましい事件だ。
 死というものは、神を信じること、キリストを信じること、祈ることを空しくしてしまう。
 このような空しさがマルタとマリアの家にあった。何故、この若さで死ななくてはならないのだ。何故、このような子どもが無残に死んでいかなくてはならないのだ。ぶつけようがない怒りと空しさが、マルタとマリアの家を、そして、わたしたちの世界を包んでいる。
 「イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」(33節)
 主は激しく憤られる。死というものが、信仰も、祈りも空しいと感じさせてしまう。突然襲う不幸が、人間を死の絶望に陥れる。人間が死ななくてはならないことに主は憤られている。
 主は人々の不信仰に憤られているのではない。人間を深い悲しみと絶望に陥れる死の力に憤られる。
 死は人間の最後の敵だ。この敵の前には人間は屈服する以外にない。その人間を絶望の底に陥れる死に主は憤られる。そして、ラザロの死で絶望と空しさの中にあるマルタやマリアの為に涙を流される。
 主イエスはわたしたちの渇きや、悲しみや、怒りに涙を流される。世界の中に残忍な、残虐な出来事があり、激しい怒りと、深い悲しみと、そして死の絶望に人間を陥れる、この現実の中で主は涙を流される。この殺し合う世界の罪を十字架にかかって苦しんでくださった主イエス、涙を流して人間の苦しみに共鳴し、そして、「わたしが復活であり命である」と宣言される。
 すなわち「新しい命」の世界に生かすという宣言の言葉だ。死は終わりではない、新しい命の始まりだ。
 愛するものを失って、信仰と祈りさえ空しくなってしまう只中に、死と闘って勝利された主イエスが、涙を流し、憤り、わたしたちの心と一つになってくださり、「わたしが復活であり、命そのものである」と宣言されて、新しい命の世界に招いてくださるのだ。

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