「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」4月号より

外のものを内に包む

牧師 石橋秀雄

「感謝の歌声を響かせ、驚くべき御業をことごとく語り伝えます。」
(詩編26編7節)

 詩人は神の業に驚いている。この神の業への驚きが私たちの支えであり、希望であり慰めだ。 詩編26編の詩人が受けとめた驚くべき神の業とは何だろうか。
 詩人が、まず受けとめる驚くべき神の業とは、出エジプトの出来事だ。 エジプトの強制労働から先祖たちが救われた。神の力強い働きによって救われたということだ。 この神の業をことごとく伝える、と詩人は感謝して語っている。
 ことごとく伝えるという時、伝えにくい出エジプトの神の業がある。
 「わたしはファラオの心をかたくなにする・・・・・エジプト人は、 わたしが主であることを知る。」(出エジプト7章3節、5節)
 この言葉は分かりにくい。エジプトからイスラエルの民を救う為に、さまざまな災いが エジプトの人々の上に下った。エジプトの人々はその災いに苦しんだ。しかし、主がファラオの心を かたくなにしたので、ますますエジプトの人々は苦しむことになってしまう。まるで、 神がご自身の業を否定するような、神の自己矛盾ではないかと戸惑う出来事だ。
 しかし、「エジプト人が、わたしが主であることを知らせる」という言葉に注目させられる。 人間は神の業が明らかにされればされるほど、その業に服従するより反逆してしまうのだ。 エジプトは、その文化と歴史が絶対の社会だ。その代表としてのファラオ(王)は神と見られている。 イスラエルの神が主であるとされる時、当然激しく反発し抵抗し、心をかたくなにする。 このファラオは神の前にどうしても罪を犯してしまう私たちと重なる。主はすべての民の主であられる。 「主がファラオの心をかたくなにした」という言葉は、激しく反発するファラオに対しても 主として繋がっておられる事を示している。外の人間、罪を犯す人間、神に反発する人間、 その外のものをも内に包み込んで行こうとする神の業が示される。かつて詩編26編の詩人も罪を犯し、 神に反発し外におかれても仕方のない存在であった。それゆえ「わたしを憐れみ、贖ってください。」 (詩編26編11節)ち祈っている。まさにここに大いなる神の業がある。神は外の者、罪を犯した者、 反逆する者の主としても働いてくださるのだ。
 キリストの十字架は、この外の者を内に包み込む神の業、その愛の業の極限である。私たちのために、 頑なな私たちのために、この外に、罪の中に身を置いて十字架に死んで下さったのだ。ここに決定的な 神の愛が示されている。この神の驚くべき御業をことごとく伝えるものでありたい。




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