「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。」「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人」 |
(詩編146編1節、5節) |
神と共に歩む者の幸いは、まず始めにハレルヤの賛美の歌があり、そして、最後にハレルヤと賛美の歌を歌うことができることだ。
信仰者の歩みはハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる。
この146編の詩編は「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。」(1節)に始まり、そして、この詩編の最後に「ハレルヤ。」(10節)と結ばれている。
私たちの歩みの始めと終わりにハレルヤの賛美がある。どのような暗い現実の中にあっても先ず始めにハレルヤがあり、そして、終わりにハレルヤがある。この賛美の言葉が消えることがない。
この詩人は本当に人間の支えになるものは何かということを問いかけている。
詩人は自分自身を、人間自身を直視する。
人間は、はかない、弱い、死すべき、無価値な塵のような存在だ。この人間の現実を直視する。自分の弱さを直視する。神を信じているからできることだ。
「虐げられている人……うずくまっている人……みなしご……」(7節〜9節)
飢えている人、病気や罪や様々な問題に縛られている人、途方にくれてうずくまっている人、身寄りのない人、孤独の苦しみにある人。この人々を支えてくださる神は、このような人を愛することを喜びとしてくださる。その為に独り子イエスを私たちの中に送り、十字架の愛、極限の人間への愛を示してくださった。
途方にくれ、自分の弱さ、はかなさを思い知る中で、神の愛が、「そのあなたを愛することを喜び」とする神の愛が私たちに迫る。
それ故、ハレルヤとの賛美の歌が心にあふれる。
新年に喜びの挨拶が交わされる。
その新しい年のまず初めに、本当の幸い、本当の喜びの道が、示される。
本当の幸いとは「ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人」(5節)だ。
ヤコブの神、イサクの神、ヨセフの神、そして、「わたしの神」と呼びかけることが許される。この小さな、小さな、貧しい、弱い「わたし」を愛する事を喜びとしてくださる神だ。
それ故、どんな現実にあっても「ハレルヤ」の賛美の歌が、私たちから奪われる事はないのだ。
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(鷺 撮影:N大T.H)
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