キセキレイ
主がわたしたちの味方でなかったなら……そのとき、わたしたちは生きながら、敵意の炎に呑み込まれていたであろう。
わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
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(詩編124編1〜3節、8節) |
イスラエルの歴史は危機の連続だ。イスラエルを脅かし、滅びの中に陥れる力に満ちていた。その危機の連続の中で、その歴史を見つめながら告白されている。
「もし、主が味方でなかったなら、敵意の炎の中に滅んでいた」。
牧師になって35年。人の危機の中に呼ばれていく。一緒に慌てふためいてしまうということを何度も経験している。そのような危機の中にある人、危機を克服した人から「もし、イエス様がいなかったら、とっくに死んでいました」と何度も聞かされてきた。
この詩編を学びながら、危機とは何かということを考えさせられた。
人間を死の世界に引きずり込む様々な問題。突然襲う不幸、重い病、それが危機だろうか。
「危機とは、決定的な力として神を信頼することを選ぶか、それとも人を信頼することを選ぶかという選択が、あたかも歴史における根源的な選択肢ででもあるかのように見せかけるところに潜んでいる」(メイズ著『詩編』)。
目の前に命を脅かす問題がある。重い病、様々な問題が、死の中に引きずり込む問題が迫ってくる。そのところで、神を信頼すべきか、人に頼るべきかを考えてしまう。危機とは実にそこにあると示されている。
わたしたちの危機は、今自分を脅かす力が危機であるのではない。神か人かと考えてしまい、神への信頼が揺らいでしまうことが危機である。
「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」(八節)
「天地を造られた主」が強調される。わたしたちの味方、わたしたちの助け手は天地を造られた主からくるのだ。
神か人かなどと考え、悩むことは愚かである。この世は神が造られた世界だ。わたしたちは、神が造られた世界の中にあるものを恐れ、危機を感じて苦しんでいる。詩編一二四編の詩人は訴えている。
「この世をはるかに越えた、この世の力は比較にもならない圧倒的存在者、天地を造られた主が、味方してくださるのだ」と。
天地を造られた主が味方であるならば、誰が、わたしたちに敵する事ができるだろうか。天地を造られた主は主イエス・キリストの十字架によって人間の苦しみ、痛み、脆さ、罪を知り尽くしてくださった。天地を造られた主は、わたしたちの罪を赦し、わたしたちの問題を自分の事として担ってくださった。そのお方が味方であるならば、誰が、何がわたしたちを滅ぼす事ができるだろうか。
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