みことばに聞く


(おなががも 撮影:N大T.H)
涙と共に種を蒔く



「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」
(詩編126編5節)

         

 今日の聖書、詩編126編を愛唱している人は多い。
 「涙と共に種を蒔く」。種を蒔く時は、昔は悲しみの時とされた。この悲しみの時は、同時に、喜びにつながる時でもある。種を蒔くということは死を意味した。さらに、この死は命につながる死であるがゆえに祝う習慣があった。種は死んで、実りの世界、命の世界につながる。だから、死は喜びにつながる。古代社会では広く見られる考え方が、この詩編126編の御言葉の背景としてある。
 「涙と共に種を蒔く、しかし、喜びと共に刈り入れる」。
 種を蒔くという行為は死を意味し、その死は命の世界、豊かな実りの世界につながる死だ。
 主イエスも「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と教えられている。主イエスの十字架の死は、神の世界、永遠の命の世界につながる死、豊かな命の実をもたらす死、永遠の命の世界を切り開く死だ。
 11月3日に教会のバザーが開かれた。「10月28日にメールを園長先生に打ったけど」と、ある卒業生のお母さんから言われた。大変大切なメールを見落としていた。
 メールの内容は「バザーでたこ焼きができなくなった」という連絡であったが、しかし、そのメールには「父が亡くなった」と記されてあった。このような大切なメールを見落として申し訳ないと思った。
 お父さんの話をバザーでしてくださった。お父さんは癌の手術を受けた。しかし、医療ミスで亡くなった。70歳であられた。
 医師は涙を流して謝られたそうだ。お母さんは熱心なカトリック信者だ。
 葬儀の時の聖書の箇所が「7の70倍赦しなさい」との御言葉であった。医師が涙を流して謝罪してくれたこと、「7の70倍赦しなさい」との御言葉が与えられたこと、これで十分だと話された。
 意識が混沌としている時に、洗礼を授けた。もうこれで終わりと思ったからだ。父に無断で洗礼を授けたことを父に悪いと思ったそうだ。しかし、その後、お父さんが一時意識が回復された時、洗礼を受けたことを聞いて涙を流して喜ばれたそうだ。
 医療ミスをしたお医者さんに対して、お父さんは握手をされたという。
 このような死、涙があふれ、悔しさと絶望が支配する時だ。怒りや憎しみが渦巻く時だ。しかし、平安が与えられた。「平安の気持ちで父は神のもとに、永遠の命の世界に、豊かに実をならしたものとして召された」と語って下さった。神の命にあずかることによって、憎しみや怒りが深まるところで、母も娘も平安に包まれたという。そして、神様に感謝していた。この話に感動した。
 主イエスの救いと恵みの中に生かされる時、涙の中で平安が与えられ、永遠の命の世界への希望が、克服できない問題を克服せしめる力であることを教えられる。主イエスにあって流す涙は、涙と共に種を蒔く業は、人生は、かならず刈り入れの喜び、天の永遠の命を得る喜びにつながる。





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