(しじゅうから)
「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」
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(ヨハネによる福音書13章30節)
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イスカリオテのユダは、主イエス・キリストから、パン切れを渡されると、主イエスを裏切るために世の闇の中に消えている。「夜であった。」この言葉が、わたしたちの心に突き刺さる。
ユダについてはその罪の故に指摘される。
「生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14章21節)と指摘されている。
自分の人生が否定される事ほど、悲しい事はない。
わたしたちの社会の中で、このような悲しい言葉を聞くことがある。とんでもない不幸の中に落とされたとき「生まれてこなければよかった」と思ってしまう事がある。
まして、「この上なく愛する主、最後まで、徹底的に愛する主」をユダは裏切ってしまうのだ。この徹底的に愛してくださる愛の中で、ユダは主を裏切る。これ程の闇はない。神と一つであるお方、神である主を裏切って、どこに希望があるだろうか。
「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」
ユダの手にパン切れが渡されている。主はユダを排除されなかった。最後の晩餐で、主イエスは弟子たちの足を洗い、そして、パンを裂いてぶどう酒に浸し、弟子たち一人ひとりに渡された。主イエスを裏切るユダを、ペトロを、主イエスは排除されない。
弟子たちのために裂いて、ブドウ酒に浸されたパン切れは、主イエスの十字架で裂かれる肉と血を意味している。
「この上なく愛し抜かれた。」(13章1節)
主の「この上なく、最後まで、徹底的に愛し抜く愛」が強烈に示される。
この愛は闇の深みの中に示される愛だ。
ユダは闇の中に走り去って行く。ユダはその闇に耐えられなくなって自ら命を落としてしまう。「生まれなかった方がよかった」と自分の人生を否定し、罪の重さに耐えられなくて、自ら命を落とす、これほどの闇はない。
光がない闇、希望がない闇の中に沈んでしまった時、死ぬ以外ない闇に覆われた時、何一つ希望がない中に、しかし、主イエス・キリストのぶどう酒に浸されたパンがユダの手に握られている。このユダのために、この罪のために、この闇に沈む人間のために十字架の道を歩まれるのだ。主イエスの最後まで愛しぬく愛、十字架の愛が闇のただ中に示されて行く。闇の中に十字架の復活の希望の光が輝いて行く。闇はこれに勝たなかったという希望の光が輝き始めるのだ。
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(せきれい 撮影:N大T.H)
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