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「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
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(ヨハネによる福音書15章5節) |
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ヨハネによる福音書のキーワードはつながるということだ。
「つながっていなさい、とどまりなさい」と繰り返しヨハネによる福音書で訴えられている。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書15章5節)
主イエスがキリスト、救い主であることの強い宣言が、この言葉によってなされている。主イエスご自身が「ぶどうの木」となってくださることによって、救われ、神の前に実を結ぶ人生に導かれると教えられている。旧約聖書には、酸っぱいぶどうの実をならすぶどうの木の譬えが、記されている(イザヤ書5章1節以下など)。この譬えで良い実をならすことができない人間の現実が強烈に示されている。
神の恵みと慈しみに生かされながら、どうしても「良い実」ではなく「酸っぱい実」を実らせてしまう人間の姿、罪の姿が示されている。良い実をならさないぶどうの木は切り倒されて、火に投げ入れられて捨てられるしかない。滅びる以外にない。このぶどうの木に、主イエスご自身がなってくださったと新約聖書のメッセージが響く。ぶどうの幹が、枝につながっていなさいとは、矛盾する言葉に思える。
しかし、ここに信仰の決断が求められている。枝は枝自身では、何も出来ない。ただつながっていること、それ以外に道はない。つながることによって、樹液が流れ、良い実を実らすことができる。
ヨハネによる福音書15章1節から17節の、この僅かな節に「つながっていなさい」「とどまりなさい」と11回も繰り返し訴えられ、招かれている。「とにかく、つながっていなさい。とにかくとどまっていなさい」と訴えられている。ぶどうの木につながっていることが、枝にとって全てだ。ぶどうの木として、わたしたちにつながって下さる主イエス・キリストが、わたしたちの全てだ。
つながっていれば、そのことで「すでに清い」「すでに神に受け入れられ、罪赦されたもの」として生かされる。主イエス・キリストから樹液、命の水をいただいて、神の前に実をならすものとして生かされる。
主イエス・キリストが、ぶどうの木と宣言してくださるところに、わたしたちの救いと希望がある。
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