「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」5月号より

落胆しない

牧師 石橋秀雄

「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」
(コリントの信徒への手紙二 4章1節)

 「もうどうにもならない」と落胆してしまうような問題に直面することがある。
 「もうどうにもならない」。
 人間の無力を思い知らされる。大きな病、大きな問題をかかえて、自分の力、人間の力では「どうにもならない」ということがある。
 パウロもしばしば「もうどうにもならない」という問題に出合ったと思われる。内には「サタンのトゲ」といわざるを得ない病をかかえていた。サタンの仕業としか思えないような病に苦しむパウロであった。外には迫害があり、死を覚悟しなくてはならない苦悩をしばしば味わっている。さらに、パウロが福音の種をまいたコリント教会、この愛するコリント教会から激しく非難されるということがあった。
 しかし、パウロは「落胆しない」と語っている。
 「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」
 パウロにとって重要なことは神の憐れみを受けたという事実だ。
 パウロは教会を迫害していた。木にかけられて殺された者は神にのろわれたものだ。こののろわれたものがメシヤであるはずがない。神の子であるはずがないと激しく教会を迫害していた。
 このパウロが復活のキリストに出会い、神の業に敵対し、神を冒涜していたのはじつは自分であったということを思い知らされる。神に敵対し、神を冒涜し、神に逆らっていた自分が、神の憐れみを受けた。神に赦されたということは、パウロにとって圧倒的出来事であった。この圧倒的な神の憐れみを受けたということが、パウロのすべてである。
 命を脅かす問題、死を覚悟しなくてはならない問題の中で「神の憐れみを受けた」という事実の故に「落胆しない」とパウロは語る。
 私たちも神の憐れみの中で生かされている。神に愛されるに値しない私たちが、十字架の赦しの愛の中に生かされている。
 私たちの為に独り子が、十字架に死んで下さったという圧倒的な神の愛を受けている。この神の愛、神の憐れみの中で生かされているという事が、人間の無力、自分の無力を思い知らされる中で、「もうどうにもならない」という現実の中で、「しかし、落胆しない」と、なお希望をもって生きる力となる。



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