キリストをあがめる

「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」
(フィリピの信徒への手紙1章20節)



 希望を失わないで生きることができればと思う。しかし、希望が裏切られて、希望が打ち砕かれて失望の中に生きざるを得ないということが多い。パウロは希望について「希望は失望に終ることはない。」(口語訳・ローマ人への手紙5章5節)と熱く語っている。
希望は失望に終らないということがパウロの確信だ。
 希望が失望に終らないということは「信じていたことがその通りになる」ということだ。信仰者の幸いは「信じていたことがその通りになる」ということだ。
パウロの置かれた状況は非常に厳しい。
パウロが獄に入れられている。今までの伝道活動の挫折を思い知り、教会の信徒も動揺している。この状況でも、パウロは希望を持ち、喜び、神を賛美している。なぜなら、神が共に働き、神が共に闘って下さる。この神の業への確信があるからだ。「信じたことがその通りになる」という確信があるからだ。
獄の中のパウロは、いつ処刑されるか分からないという切迫感がある。
明日、処刑されるかもしれない。この状況の中で、パウロは失望していない。
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」とパウロは語っている。
  人生を最後まで行きぬく力はなんであろうか。自分の人生、希望をもって歩みぬく力、それは唯一つだ。キリストの力だ。パウロの中にキリストが大きくなっている。「自分が生きるにしても、死ぬにしても、ただただキリストがあがめられる事」その事だけをパウロは願っている。
 目に見えるものを人生の支えとしていたら、それは、失望に終る。目に見えるものはやがてなくなってしまうし、限界もある。目に見えるものの限界を思い知って、失望に終ると言う事がある。
 十字架の主は「この世では、なやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(口語訳・ヨハネによる福音書16章33節)と励ましてくださった。
 十字架の勝利者イエスが、この身であがめられる。この主イエスが自分の中で大きくなって「自分が生きるにしても、死ぬにしても、ただただキリストがあがめられる」事と告白するほどに自分の中でキリストが大きくなったら、克服し得ない問題はない。実際にパウロは明日処刑されるかもしれないという死の恐怖を克服している。
 キリストは死に勝利し、この世に勝利し、復活の希望をわたしたちに示してくださった。この希望は失望に終らない。キリストがこの身であがめられる事、それが、人生に希望をもって生かす力である。

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