「人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」 |
(詩編144編3節) |
人間とは何かということは、思想家や宗教家が歴史の中に問い、考えてきた重要なテーマだ。
聖書は人間とは何かという問いに明確に答えている。
「人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影。」(4節)と記されている。
人間は神の前に土のチリから造られた存在であり、あっという間に、跡形もなくはかなく消えていく存在でしかない。
この詩編144編はイスラエルの王の即位式の時に歌われた詩とされている。極小国イスラエルが、強国に囲まれて、存在することがゆるされたのは神の恵みと憐れみによるものだ。
それ故に、イスラエルの王は神の前での自分を直視することが求められる。王は神の前には、はかない無価値な、消え去る影にしか過ぎない存在でしかない。
この神の前における自分を忘れ、王の権威をかざして民衆を支配した時、王は転落する。
わたしたちも神の前での自分の姿を見失ってしまう時、わたしたちの人生は虚しいものになってしまう。
人生を支える力は驚きであり、感謝であり、賛美だ。
「人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」(三節)
「人の子とは何ものなので」とある。ヘブル語でベン・アダムと記される。あのアダムとエバのアダムだ。塵という意味だ。
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創世記2章7節に「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」と記されている。
神の前には人間は塵にしか過ぎない。
塵にしか過ぎない者に全能の大いなる神は命の息を吹きいれられて、人間を生きるものとされた。
塵にしか過ぎない無価値なものを神は「思いやってくださる」。神の前に無価値な存在を思いやってくださる神。そして神の愛は計りがたい。
神の前に裏切り、神を捨てた民、神の前に罪を犯した民を、神は救いあげてくださる。
「人は何ものなので」と驚きをもって神の業を見るのだ。
わたしたちは旧約の詩人以上の、比較にならない神の恵みの中に生かされている。
罪人を救う為に、神と一つであるお方が十字架に死んでくださったのだ。
神の前に罪を犯したわたしたち、このわたしたちは自分たちが無価値な塵にしか過ぎない存在というだけではない。神の前に罪を犯し、神の裁きを受けて滅んでしまう存在だった。
この罪の中にいるものの為に、神自ら人間の罪の中に沈んでくださり、十字架にかかってくださり、わたしたちに代わって、罪の罰を受けてくださった。
塵にしか過ぎない、消え果ててしまうわたしたちの為に、このわたしたちの罪を、神自ら痛み苦しみ、十字架にかかってくださった。
わたしたちは、大きな驚きと感謝をもって「人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」と告白し主を賛美することができる。
この神の業に驚き、感謝し、神の業を賛美する。
この驚きと感謝と賛美がわたしたちの生活に潤いと慰めを与え、そして、人生の大きな支えとなる。 |
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