御業を数え上げる

「わたしの王、神よ・・・大きな御業をわたしは数え上げます。・・・主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。」
(詩編145編1,6,8節)



 この詩編は「わたしの王」と神に呼びかけている。この呼びかけは145編のみの特徴である。神が王として働いてくださる事に感動して喜びと賛美の歌を歌っている。
 王は明確な意図をもって国を支配しその支配には絶対的服従が求められる。
 人間が王となる時、民衆にとってはありがたくないことが多い。
 しかし、神が王であるとき、王の支配への服従は大きな喜びだ。なぜなら、神の支配は「祝福して救う」という明確な意図を、目的をもっておられるからだ。
 「神は全てのご自分が造ったもの」を救う為に働かれる王だ。
 わたしたちの王として、働いてくださるその「大きな御業を数え上げ」たら、その御業で示される神は「恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ち」たお方である。
 「恵みと憐れみと忍耐と慈しみ」このひとつひとつが御業の中にあふれでている。
 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。」(14節)
 天地創造の神、この大いなる神が、力ある王として「ひとりひとり」を心にかけてくださると歌われる。




  この詩人はキリストの十字架を知らない。十字架で示される事は、倒れようとしているものだけでなく、倒れてしまっているもの、ひとりひとりに対する神の大いなる御業だ。
 神に逆らって滅ぼされてしまう人、そのひとりひとりを神は救われた。十字架において、この滅ぼされてしまう罪を、その罰を、神と一つであるお方が、キリストが担ってくださった。独り子を犠牲にして罪に倒れていたものを救う。神に逆らっているものを救う。まさに「神の驚くべき忍耐と慈しみと恵みと憐れみ」が十字架の主の御業において、わたしたちひとりひとりにそそがれる。
 それ故に、どのような罪の中にあっても、どのような場にあってもわたしたちの祈りと叫びは聞かれるのだ。
 「叫びを聞いて救ってくださいます。」(19節)
 「主を呼ぶ人全て」だ。罪の中にあっても、倒れかけ、うずくまり、倒れてしまっている人にも、その祈りと叫びを近くにいて聞いてくださり、そして、救い上げてくださる神が、王としてわたしたちを支配してくださっている。この詩人以上に心からの賛美を主に捧げる者でありたい。

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