「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが、彼らはわたしを圧倒できなかった。」
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(詩編129編1節〜8節) |
詩編129編ではイスラエルが人格化されて語られている。
イスラエルの歴史は苦難の歴史だ。「若いときから」というのは「イスラエルの国が作られる前」を意味している。
「耕す者はわたしの背を耕し」と三節にある。エジプトの強制労働を思い起こす言葉だ。奴隷のように働かされて、深く傷つけられる苦難を味わってきた。
外国の強力な軍事力によって支配されたり、命が脅かされる歴史を歩んできた。しかし、激しい苦難の中で「圧倒されなかった」「敵に圧倒されなかった」と告白されている。
イスラエルが若いとき、まだ国が作られる前、エジプトの奴隷であった。このエジプトの奴隷から神の力で解放された。エジプトを意気揚々と出て行ったのだ。しかし、エジプトの王はイスラエルの民を解放したことを後悔して、イスラエルの民を追いかける。
エジプトの最精鋭の戦車部隊を先頭に、その後ろには、エジプトの全部隊がイスラエルの民に迫ってくる。「意気揚々」とエジプトを出たイスラエルの民はあわてふためき指導者のモーセに「エジプトに墓が無いので、ここにつれてきたのか」と詰め寄っている。
前は海、後ろからはエジプトの軍隊、この危機の中にある民にモーセの言葉が響く。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」(出エジプト記14章13節)
「主の救いを見る」とある。この危機の中でイスラエルの民は「主の救いを見た」のだ。
神は海を二つに分け、そこを渡らせて、イスラエルの民を救われた。
イスラエルの民を圧倒したのは、エジプトの軍事力ではなかった。神の救いの業がイスラエルを圧倒したのだ。
イスラエルの歴史は苦難の歴史である。しかし、その苦難の中で「主の救いを見た」のだ。それゆえにイスラエルの歴史は救済史である。イスラエルの歴史を見つめることは、神の救いを見つめることになる。
わたしたちは圧倒的な主イエスの救いの業、死や罪、この敵に対する圧倒的救いの業を見ることができる。「若いときから、様々な苦難にあった。しかし、その苦難は自分を圧倒しなかった。」
なぜなら、主の救いの業を見たからだ。
主の圧倒的救いを受けて歩む幸いをかみしめたい。
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