物語る者として


「低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」
(詩編136編23〜24節)



 先週は関東教区総会が開催された。総会の中で按手礼式が行われた。富井鉄平牧師の所信表明は感動的だった。脳性小児麻痺の障害を持ち、身体の機能が低下するなかで教団正教師試験に合格され、按手礼を受けた。
 「牧師たちが楽しく福音を物語っている。自分も身体のあらゆる部分の機能が衰えて行く中で、この身を通して福音を物語る者として立って行きたい」と所信表明をされ、終わった時会場から拍手が起こった。今まで36年按手礼式を経験してきたが、所信表明で拍手が出たのは初めてだ。
 福音を物語る。「この目も耳も口も足も手もあらゆる部分の機能が低下している。しかし、この身をもって、神の業を物語りたい、楽しく物語りたい。衰えていくこの身体で物語りたい」という部分が心を打つものだった。
 福音を物語る、神の業を物語る。そして、神を賛美する礼拝を捧げる。この事が信仰者の慰めであり、支えであり、力であり、希望である。
 「低くされたわたしたちを、低いところから、敵の手の中に落ちていた低いところから奪い返した方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(23節〜24節)
 詩編136編では比類なき神が、天地を造り、イスラエルの歴史に働き、エジプトの奴隷から、この低いところから、敵の手の中から奪い返し、カナンの地を与えてくださった事を思い起こし「恵みの神、慈しみの神」が賛美されている。
 罪と死は人間の最後の敵だ。この敵の中に人間は閉じ込められていた。
 人間は罪の中に滅んでいく存在だった。
 罪の中に、死の中に沈んで行く人間、沈んでいた人間を、この低いところから、この低いところに引きずり込んでいく敵から、罪から死から人間を、わたしたちを奪い返す為に、主イエスは十字架に死んでくださった。
 詩編136編4節「ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」と歌われている。
 低いところに神ご自身が沈んでくださり、そこから、罪から、死の滅びから、この人間の最後の敵から奪い返してくださった。



 十字架にかけられて殺され、墓に納められた主イエスは三日目に墓から復活された。墓からは何も生まれない。墓は人生の終わり、人間の終わりを思い知らすところだ。墓に命を見る人は誰もいない。墓に希望を見出す人はいない。しかし、この墓が希望を示す場、墓が驚きの場、神の驚くべき大いなる御業が現される場となったのだ。主イエスは墓から甦られたのだ。
 この神の驚くべき大いなる業を賛美し物語る者、証するものとして歩みたい。

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