挫折と失敗


「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」
(ヨハネによる福音書21章4節)



 挫折と失敗は人生の中で避けて通れない。
福音書も主イエス・キリストの弟子たちの挫折と失敗を記している。
聖書には、ペトロは「わたしは漁に行く」と言って舟に乗り込んだ。ところが魚はとれなかった。魚をとることに失敗してしまった事が記されている。
「その夜は何もとれなかった。」(3節)
夜は魚をとる絶好の時だ。しかし、何もとれなかった。魚をとる事に失敗したのだ。
このペトロや弟子の失敗は教会の姿を示している。教会も失敗する。
夜は魚をとる絶好の時だ。今、教会が働く絶好の時、教会が伝道する絶好の機会と思って働いても、しかし、失敗してしまう。魚は一匹もとれないのだ。伝道の成果は上がらない。この漁に失敗するペトロの姿は歴史の中の教会の姿である。
ペトロたちは魚をとる事に失敗して意気消沈して疲れきって、岸辺に帰ってきた。
主イエスは岸辺に来て待っておられ、失敗し、挫折し、意気消沈して疲れきって帰って来る弟子たちを迎えられる。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(4節)
既にキリストはそこに来ておられる。
教会の業もこのように失敗することがある。挫折することがある。意気消沈して疲れきってしまうということがある。しかし、その疲れきってしゃがみこむその所に既に復活の主イエスは来ておられるのだ。
まさか、そこに復活の主がおられるとは思いもよらないことだ。
わたしたちも挫折し失敗し意気消沈してしゃがみこむということがある。
しかし、そのしゃがみこんでいるわたしたちのところに主イエスが、復活の主が既に来てくださっている。
そして、御言葉を与えてくださるのだ。



魚が一匹もとれなかった、ペトロは挫折し、自分の無力を思い知らされている。教会も自分の無力を思い知らされる。
 何も出来ないという自分の無力を思い知る。その所で、ペトロに、教会に、わたしたちに主イエスは出会い「御言葉」を下さる。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(6節)
この主の御言葉をいただいて、ペトロは再び海に漕ぎ出す。
 挫折し、失敗し、意気消沈したわたしたちに主の言葉が、力を持って響く。この主の言葉がわたしたちを立ち上がらせ、教会を立ち上がらせて再び歩みださせる力なのだ。

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