だが、それが、なんであろう


「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」
(フィリピの信徒への手紙1章18節)



 聖書は正直に人間の現実を記す。人間の姿を、人間世界の現実を赤裸々に記す。その事に戸惑いを覚えたり、躓いたりする人もいる。
教会の姿、キリストを宣べ伝える者においても正直に記し、綺麗ごとを並べて語る事をしない。
教会でキリストを告げ知らせている人はどのような人だろうか。
今日の聖書の言葉に驚かされる。
教会の伝道を担っている人がどのような人であるか。
パウロがフィリピの信徒への手紙一章一五節以下で真っ先に記している言葉は否定的な言葉である。
「エッ、こんな人が」と思ってしまう人について真っ先に記している。とても伝道者としてふさわしいと言えない。
「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられて」(15節)
キリストを宣べ伝える者の心の中に「ねたみと争い」の思いがあると記される。
さらに「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」(17節)と記す。 
パウロは獄中にある。パウロの反対者は獄中のパウロを批判し、自分の勢力を拡大するという不純な動機でキリストを告げ知らせている、というのだ。
パウロを苦しめる活動が盛んになるなかで、しかし、次のパウロの言葉が心に響く。「だが、それがなんであろう。」(18節)
自分は苦しめられている。自分が痛めつけられている。自分のプライドが傷つけられている。
「だが、それがなんであろう」とわたしたちは言えるだろうか。



 パウロの願いと祈りはただ一点にある。
「キリストが告げ知らされている」「それを喜ぶ」と力を込めて語っている。
 「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいま
す。これからも喜びます。」
パウロの確信は主イエス・キリストが働いているという事である。
キリストを宣べ伝える者としてふさわしくない者を、主イエスが用いられているということである。キリストがふさわしくない者を用いて働かれている。
だから、その心の中に問題があったとしても「それがなんであろう」とキリストが宣べ伝えられ、キリストがそのふさわしくない者を通して働いておられることを喜んでいる。
キリストを宣べ伝える者としてふさわしい者は誰もいない。ふさわしくない者を用いて主イエスが働き、キリストが証されている。このわたしが用いられ、あの人この人が用いられている。その事を感謝して喜び合う教会でありたい。

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