一つの事を


「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
(フィリピの信徒への手紙2章2節)





 新しい年の歩みが始まった。
 新しい年、教会の中での生活、外での生活、そして、世界において、思い願い、祈る事は「心を合わせ、思いを一つ」にすることができたらということだ。「心を合わせ、思いを一つ」にする。一つになる事が出来たら、どれほど、平安な生活が、平和な世界がもたらされるかと考えさせられる。
 しかし、一方、「心を合わせ、思いを一つに」することは難しい。
 パウロが語りかけるフィリピの教会は、問題の少ない、パウロを支えた教会であるが、それでも、一つになれない苦悩を味わっている教会だ。この現実にしっかりと目を向けながらパウロは語っている。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、」(フィリピの信徒への手紙2章3節)とパウロは語る。
 教会が一つにならない理由として、「利己心と虚栄心」が挙げられている。
人間は、自分の利益を求めるということ、自己中心からなかなか自由になれない。自分を様々に飾り立てて、本当の自分を隠して、人に良く見られようとする虚栄から自由になることができない。ねたみの思いが深くなり、裁き合うということが起こってくる。人間が一つ思いになるという事は、不可能に思える。
 パウロは一つになれない、痛みの中にある教会に、その現実を見据えながら語りかけている。
 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
 この「思いを一つに」という言葉は、「一つの事を考える」とも訳せる。従って、一つ思いになるということは、一つの事を考えるということだ。

 一人ひとりは違う。違うことが分かってくると一つになれないという事も起こってくる。
ここでは「一つになりましょう」と勧めているのではない。
 神の前に、十字架の前に一人ひとりが立ち、一つの事を考えようという事だ。
 十字架のイエス様の前に立ち、十字架のイエス様の赦しを見つめるのだ。
 神の前に赦しを受けなくてはならない自分の罪、利己心や虚栄心からねたみや人を簡単に裁いてしまう自分の罪、自分の弱さや脆さを神の前に見つめざるを得ない。そして、その自分が十字架の赦しの恵みを受けていること、神のとてつもない愛に包まれている自分を見つめる。その時、喜びで満たされる。
 その喜びは、キリストの前に立つ、全ての者の心を満たす喜びだ。
 一人ひとりは違っても、この喜びを共有する時、初めて思いを一つにする事ができるのだ。