醜さの極限


「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。…彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
(イザヤ書52章14節・53章5節)





 今、NHKの大河ドラマで武田信玄の軍師、山本勘助を放映している。彼の片目は損なわれていて、眼帯で隠されている。しかし、その眼帯をはずした顔は、まともに見る事が出来ず、見たものを恐れおののかせる。
 イザヤ書が示す、救い主は醜さの極限に身を置く。
 「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。」(14節)と記されている。
「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。」と救い主の姿が記されている。
 救い主は顔が損なわれ、身体も損なわれ、苦痛から逃れられない人として死んでいく。この救い主は本当に病を知る人だ。人に見捨てられ、痛みを負い、本当に病を知るお方だ。
もうあきらめる以外にない。この苦痛からもう逃れられない。その病を本当に知るお方だ。
主イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られた。
 この叫び、この十字架上の主イエス・キリストの叫びは、人類の叫び、人間の叫び、わたしたちの叫びだ。
 この世の不条理に打ちのめされ、病や様々な痛みの中で、その痛みからもう逃れる事が出来ない者が、苦痛から逃れる事ができない者として、死んで行かねばならない者が神に対して叫ぶ叫びだ。
 主は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られる。
 



 キリストを十字架にかけて殺す人々、「十字架につけよ」と叫び、罪を犯していてもその罪に気づかずにいる民衆。この神の前に犯している罪、人間の罪、わたしたちの罪を担って十字架にかかり、祈られるキリストが示されている。キリストはわたしたちの罪を担い、十字架上で身体が損なわれ醜さをさらけ出し、肉が裂かれ、血を流されている。
 「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちは平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(5節)とイザヤは語る。
 わたしたちは罪の深みで、このキリストに出会う。わたしたちの病の深みで、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と叫び祈られるキリストに出会う。
 どのような苦難、どのような痛み、どのような罪の中にあっても、この十字架のキリストがわたしたちに出会ってくださる。この十字架のキリストとの出会いにおいて癒しと赦しの恵みが、わたしたちに注がれていく。