皮の衣を作って


「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
(創世記3章21節)




 人間はその歴史において、激しい苦痛をともなう生活を余儀なくされてきた。
新しい命の誕生という喜びの時は、同時に自分の命が奪われるのではないかと思われるほどの苦痛をともなう。何故、このように食べる為に必死で命をかけて働かなくてはならないのか、その労働の苦痛。そして、何故、人間は死ななくてはならないのか、その死の苦痛。この苦痛は人類の謎と歴史の中で考えられていた。その理由が創世記3章に記されている。
蛇の誘惑の中で、食べてはならないと言われていた「エデンの園の中央の木の果実」を女は食べ、そして、アダムも女のすすめで食べてしまった。
「中央の木の果実を食べてはいけない」これは神の言葉だ。神の言葉がアダムと女の中心にある時、祝福された生活が備えられていた。
 しかし、この神の言葉を無視し、この神の言葉を退け、神のようになろうとした。
 この罪の結果、神の問いに応答できないアダムと女になってしまった。
「どこにいるのか。」(9節)と神はアダムに問う。この問いに応答して神の前に出ることができない。隠れてしまった。
 アダムは神を恐れ、「裸で恥ずかしい」と隠れた理由を語る。
 神の前に自分をさらけ出せなくなってしまった。自分が裸であることが恥ずかしくなってしまった。神の前に自分をさらけ出し、神の支えをいただいて神の恵みの中で生きる関係が破壊されてしまった。
「どこにいるのか。」と問われて、神の前に出る事ができない人間になってしまった。



  すべての人間の破れ、全ての人間の苦痛、その原因は「神の前に出ることができない人間になってしまったことだ」と示されている。
 エデンの園の労働は祝福と喜びに満ちたものだった。しかし、労働は苦痛を伴うものとなり、必死に働き死んでいく。死の苦しみ。この苦しみから逃れる事はできない。人類はこのような重荷を背負って生きなくてはならない存在になってしまった。
 この神の言葉を無視し、神に逆らったアダムと女に「神は皮の衣を作って着せられた」と神の憐れみが示される。
 神は苦痛の中に、苦しみの中に人間を捨て置かれない。
 創造の神は、救済の神として、歴史の中にご自身を現していく。その神が、この御言葉に示されている。
 神は人間の恥ずかしいと思うところを覆ってくださった。破れや弱さの部分を、本当に恥ずかしい罪を覆って救い上げてくださる神の業。その大いなる救いが、主イエス・キリストによって実現する。
 パウロは「キリストを着なさい」と語る。キリストを着て、罪が覆われて、大胆に神に近づき、神の祝福の中に生きる道が開かれた。主イエス・キリストは様々な苦痛の中に生きるわたし達を探し出して救う神であられる。