「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」 |
(フィリピの信徒への手紙3章12節) |
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「わたしの信仰は完全だ」という人はいない。しかし、一方、この聖書のパウロの言葉も不思議だ。
「既にそれを得たというわけではない」と言っている。パウロは今牢獄の中にある。明日、殺されるか分からない。
その人生の最後のところでまだ「得た」とは言えない、「完全な者となっているわけでもない」と言っている。ここでは一言で言えば自分の信仰生活は不十分だと言っているのだ。
命をかけて伝道し、命をかけて主イエス・キリストの事を語ってきた。しかし、不十分だ、まだまだという。
パウロほどの者がまだまだだというのだ。
どういうことだろうか。
しかし、このまだまだだと言っている所に大きなメッセージがある。
完全な者になるという事は完全にキリストを知るということだ。そういう事では、まだまだだというのだ。まだまだ完全にキリストを知る者ではない。
主イエス・キリストの復活を信じている。救われている。キリストを愛している。キリストに従う気持ちは本当だと言うところに、嘘はない。しかし、まだまだ完全にキリストの力を知っているとは言えない。
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宗教改革者ルターが言ったそうだ。
「キリスト者の生活はすでに持っている事ではなく、もっともっと取り入れる事だ」
キリストの力をもっともっと取り入れる事だという。主イエス・キリストの復活に示された救いの力は絶大だ。その絶大な力をもっともっと受け入れなくてはならない。その点、まだまだだとパウロほどの人が言っている。
なんとか捕らえようとして努めている。しかし、まだまだなのだ。
キリストに捕らえられているということはそれほどの事なのだ。
パウロは様々の苦難をくぐりぬけて来た。迫害を受け、命を脅かされる危機に何度も立たされてきた。そこで、深く味わい支えられた事は「キリストに捕らえられている」という事だ。だから、苦難の中で力を受けて、前に、 前にと福音伝道の為に進んで行った。
しかし、まだまだなのだ。
キリストは大きな人生の目標を与えてくださっている。主イエスは復活して、神の右の座に座っておられる。大いなる存在者だ。そのキリストに向かって歩んできなさいと招いてくださっている。
このようなキリストに捕らえられている。
このキリストを本当に知っているかと問われれば、まだまだなのだ。受けても、受けても、まだまだといえる絶大な力をもったお方に捕らえられて生かされている。
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