教会とは何か


「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」
(使徒言行録5章11節)



 教会とは何かということを問いながら聖書を学ぶ。使徒言行録が教会という言葉を最初に使った箇所が使徒言行録5章に示されている。使徒言行録5章1節以下には残酷な記事が示されている。
今の言葉でいえば「そこまでやるか」と言いたくなる。最初の教会の姿は明るい、4章33節以下に示されている。
「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言うものがいなかった」と32節に記されている。心と思いが一つにされ、自分の所有から自由であり、自分の土地や畑を売って、捧げた、その結果、「貧しい人がいなかった」と記されている。最初の教会は非常に明るい。このような共同体に入ることができたらどれほどの幸せを味わうことができるだろうか。神の恵みに心が満たされている、だから所有から自由にされている。
一方、最初の教会の暗い部分が5章1節以下に記されている。聖書は正直だ。教会の暗い出来事を隠さない。そして、暗い出来事の中に重要なメッセージが示されていく。
アナニアとサフィラ夫婦は自分の土地を売って、その一部を使徒の足元に置いた。それは一部だった。しかし、この夫婦は全部の土地代金と偽った。
代金をごまかした。最初の教会には自由があった。捧げる自由があり、捧げない自由があり、富を持つことも否定はされていない。しかし、アナニアとサフィラは偽った。その為に神の裁きを受けて死んでしまった。その理由は神を欺いてしまったからだ。
神を欺いた罪は重い。しかし、命まで奪わなくてもと思ってしまう。「そこまでやるか」と言ってしまう。



 この神の裁きによって、大きな恐れが教会を支配した。
「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」(使徒言行録5章11節)
 ここで始めて使徒言行録を書いたルカは「教会」という言葉を使っている。
教会とは「神を恐れる者」の共同体だ。アナニアとサフィラは「神を恐れる心」を失っていた。アナニアとサフィラは土地を持つ自由、土地を売る自由、所有する自由があった。「これは土地を売った代金の一部です」と捧げてもよかった。
しかし、教会の中で人々の賞賛を得るために、全部の代金を捧げたように偽った。
この行為は神を欺く行為だった。神を欺くことは許されない。彼らの命は取り去られてしまう。
「神を恐れる心」を失うことは、信仰生活の破綻を招く。
今のわたしたちの社会の問題も「神への恐れの欠如」から起こってくる。
人々の命が脅かされる。人の命が奪われる。この悲劇の根底には「神への恐れの欠如」がある。
十字架の愛、神が全てを捧げてわたしたちを救って下さった。この神の業への恐れ、生ける神の前に生きている事への恐れ。教会とは、神を恐れ、神を賛美し、神を礼拝するところである。
この恐れが欠如したところから、教会の混乱も起こってくる。ルカは暗い、悲劇の業の中に教会とは何かということを教えている。