「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」 |
(創世記22章3節) |
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私たちの人生には様々な試練が覆いかぶさって来る。この試練を生き抜く力は何であろうか。アブラハムに度肝を抜くような神の言葉が響く。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。…彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(2節)
1節には「神はアブラハムを試された。」とある。大変な試み、大変な試練にアブラハムは直面する。「愛する独り子を焼き尽くす献げ物としてささげる」、祭壇を築いて、その上に愛する独り子を載せて焼き、犠牲礼拝を捧げる。とんでもない神の言葉だ。躓きとなる言葉だ。神は何故、このような言葉を語られたのであろうか。
今、アブラハムは幸せだ。不妊の女と呼ばれたサラに子どもが誕生した。サラ90歳、アブラハム100歳で出来た子どもだ。神の恵みによって与えられた子どもだ。
神への感謝と喜びと笑いに満ちた家庭がそこにある。
今、この幸せな家庭が、不幸のドン底に陥れられようとしている。
アブラハムの試練を通して問われているところは「それでも神を信じるか」ということだ。「それでも、その確信に立ち得るか」ということである。
「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」「次の朝早く」この言葉の中に迷いの無いアブラハムの信仰が示されている。
神の言葉を聞き、「次の朝早く」ただちに出発する。迷い、苦闘するアブラハムの姿はない。
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アブラハムの人生は試練の連続であった。
妻を妹と偽らなければ、命が守れないと言う試練を二度、その他にも次々と襲い来る試練に立ち向かった。そのつど、神の恵みによって、神の力によって救われた。なによりも、イサクの誕生は、神が与える神であることを深く味わい知るものとなった。神は恵みの神、救いの神、与える神であって、奪う神ではない。このアブラハムが人生において得た確信は揺るがない。「次の朝早く」の言葉の中に、この確信に立ってただちに決断して神の言葉に従うアブラハムの姿がある。
アブラハムが信仰の父と呼ばれる理由が、ここにも示されている。
モリヤの地でアブラハムがイサクを刃物で屠ろうとした瞬間に、神の使いによって止められ、雄羊が神によって備えられた。この出来事以来、モリヤの地、このエルサレムは「主の山に備えあり」と呼ばれるに至る。アブラハムの確信がモリヤの地で確認された。神は奪う神ではない。与える神であり、恵みの神であり、憐れみの神だ。
モリヤの地、エルサレム、この地で神の愛する独り子・主イエスが十字架に捧げられた。神は救いの神、恵みの神、与える神であること、アブラハムの信仰が徹底したかたちで私たちに示されたのだ。
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