「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 |
(ルカによる福音書1章28節) |
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クリスマスが近づいて来たこの時期、私の車ではヘンデルの「メサイヤ」が鳴り響く。序曲の後、澄んだテノールで「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とイザヤ書の御言葉が歌われる。
メシアの誕生と受難と復活が歌われるが、まさに、全ての民の慰めがここにある。
この、全人類が慰められるその始まりの言葉をルカは記している。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカによる福音書1章28節)
おめでとうと訳されている言葉は「喜びなさい」と訳す事もでき、「恵まれた方」とありますが、この言葉も「すでに恵まれている方」と訳す事ができる。
マリアは自分がすでに神に恵まれているものである事を知らなかった。しかし、すでに恵まれている、すでに神に捉えられている。だから喜びなさいというのだ。
しかし、マリアの人生は「喜びが奪われ続ける人生」であると言える。
マリアは聖霊によって身ごもるが、社会的に理解されることは難しい。
最愛の息子イエスは、十字架にかけられて殺され、墓に納められる。この残忍に殺されるイエスを見続けなければならない。
あまりに過酷な人生と言える。
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どこが恵まれたマリアであるのだろうか。
過酷な、喜びが奪われ続ける人生の中で、マリアの大きな確信がある。それは「神がマリアと共にいてくださる」ということだ。マリアは主の言葉に服従する。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)
過酷な、喜びが奪われ続ける人生の中で「主があなたと共におられる」との約束がマリアの人生を支える。
主は十字架にかけられて殺され、墓に納められる。
愛する者が死んで墓に納められる。そこには涙はない、もう涙は渇ききっている。諦める以外にない、もうこれでおしまい。
その「喜び」が完全に奪われる中に、この墓の中から、大いなる喜びの世界が開かれる。主イエス・キリストは墓から甦られた。
墓から、この絶望から、「喜びなさい、恵まれた方、主があなたと共におられる」との御言葉が響き渡る。
私たちは、復活の主の恵みの中に置かれている。主の復活の命に与かっている。それ故にどのような状況にあっても喜びが奪われることはない。
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