主イエスが分かる


「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
(ルカによる福音書24章31節)




 二人の弟子が暗い心でエマオに向かって歩いていた。
そこに、復活の主イエスが現れて共に歩き始められた。二人の目が遮られて主イエスだとは気付かない。    
「主イエスの遺体を納めた墓は空だった。天使がイエスの復活を女性たちに告げた。これを聞いた他の弟子たちが墓に行って墓が空だということを確認した」。このように語る二人の弟子は暗い顔をしている。主イエスの復活が知らされたのに、二人の弟子は暗い顔、途方にくれてエマオへと歩いている。
今、共に復活の主イエスが、歩いてくださっているのに、この主イエスが分からない。弟子たちは主イエスこそイスラエルを解放してくださるという望みをかけていた。
「主イエスは復活された」「墓が空であった」といくら言われても心は暗く、主イエスの十字架の死を目撃した衝撃からは立ち上がることは出来ない。
主イエスの十字架の死は、神の決定的な救いの業であったが、しかし、弟子たちを絶望の底に突き落とすものであった。
主の十字架の死は、弟子たちにとって今まで聞かされたこと、聞いたことの全てを吹き飛ばしてしまった。
主イエスは「物分りが悪く、心が鈍い」と二人の弟子をお叱りになりながらも、モーセから始めて聖書の言葉を解き明かされる。
そして、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(26節)と語られる。
主イエスは物分りの悪い心の鈍い者と共に歩み教えられる。
 



 メシアの苦しみを理解すること無しには、十字架も主の復活も分からない。主イエスは二人の弟子と共に食事をされた。主イエスは賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡された。その時、二人の弟子の目が開かれた。共に歩いて下さったお方が、復活の主イエスであることが分かった。主から裂かれたパンが渡された。最後の晩餐で主はパンを裂きわたしの体といわれ、ブドウ酒を流される血と言って弟子たちに与え、十字架の死を指し示された。
今、二人の弟子は十字架の死が分かったのだ。主イエスの十字架の死を見て衝撃を受けた。あの死が分かった。十字架の死が分かったら、復活の主イエスが見えるようになった。
主イエスが分かったのだ。弟子たちは喜びにあふれている。その喜びを分かち合うためにすぐにエルサレムに引き返す。
二人の弟子は、主イエスの十字架の苦しみを理解した。その時、復活の主への目が開かれた。復活の主を見ることが赦された。主はよみがえられた。その強い確信の中で、真っ暗な道をエルサレムに向かって帰っていく。その喜びを、他の弟子たちと分かち合う為に。
教会の交わりとは、この喜びを分かち合うことが中心となる。その喜びは、どんな暗い道も、人生も喜びで満たされて歩む力となる。