破綻の中に 
―仲間の一人―


「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」
(使徒言行録1章17節)



 ペトロは「ユダはわたしたちの仲間の一人であり」と語りだす。「十二弟子の一人ユダが主を裏切った」という事を隠さない。
 目に見える教会は完全ではない。ユダ的破れを常に内に抱えて歴史の中に立っている。
 そこで強烈に示されてくることは、主イエスの「憐れみ」である。
 ユダは悲惨な死を遂げる。ルカの記すところによると、主イエスを祭司長、長老に売り渡して得た銀で土地を買った。その土地に「まっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。」(18節)
 主イエスを殺す側に行ってしまったユダは、その罪がユダの中で爆発して、悲惨な結末となっている。
 主イエスを裏切る者は、自己破綻をせざるを得ない。ユダ自身、その罪をどうすることもできない。その罪がユダの中に爆発する。
 

ペトロはイスカリオテのユダを「あいつは、別だ、あいつは弟子ではない」と切り捨てない。
「ユダはわたしたちの仲間の一人だ」とペトロは言っている。ユダは闇、自分たちは光の中にいるとはペトロは言わない。ユダは仲間の一人なのだ。自分たちも主イエスを裏切った。ペトロも裏切った。
 ユダの罪が重くて、ペトロの罪が軽いとは言えない。
 あの裏切りのペトロが、再び、集められて使徒として、新しい教会の中心的働きを担う者となって行く。ユダとペトロのこの違いは何かと問われたら、「神の憐れみによる」と答える以外にない。
 主イエスの身近で、主イエスの弟子集団で、このような激しい裏切りがあり、弟子集団は破綻した。それは、主イエスの能力が問われるのではないか。何故、ユダを救えなかったのかと言われたりする。
主イエスの最も身近で激しい裏切りがあり、弟子集団は破綻した。しかし、神の業は進められる。
 主イエスのお働きについてダビデの預言の成就とペトロは語っている。
 預言の成就の為に、ユダも神の業が実現する為に用いられた。神がユダを利用された。だからユダの罪はないのではないかと言われることもある。
しかし、ユダの罪は罪だ。
 弟子集団は破綻した。
 弟子集団は破綻しても神の救いの業は実現したのだ。
 
 神が語られた事は必ず実現する。神のご意志は、主イエスの身近にいた者が裏切っても、ユダが主イエスを殺す側に立っても、神の救いの業は実現していく。
「人間を救う、主イエスの十字架と復活によって救う」という神の断固たるご意志は、変わらない。人間がどのように反発しようと、神のご意志が実現していく。
 しかも、激しく裏切った弟子たち、破綻した弟子たち、その中に神の救いが示される。
教会に、どのような破れや痛みがあろうと、どのような罪があろうと神は憐れみを注いでくださり、神の命の世界に救い上げてくださる。