立ち帰って、生きよ


「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
(創世記18章32節)
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」
(エゼキエル書18章32節)



 以前、原子力発電所のある町の礼拝に出席したことがある。私を入れて、5名の礼拝出席者であった。しかし、その教会の祈りに感動した。
その町の為に祈り、原発のある町の課題の為に祈り、日本の為に祈り、世界の為に祈っていた。この祈りに感動した。神に執り成しの祈りを捧げている。この祈りの重さを感じさせられた。
 執り成しの祈りは重要である。
 アブラハムはソドムとゴモラの町の為に執り成しをしている。神からその町への審判を知らされたからだ。
「50人正しい人がいたら」とのアブラハムの求めに、「正しい人が50人いたら、その正しい人の故に、町全体を赦そう」と神は約束された。アブラハムは神に胸の高鳴る緊張の中で、さらに「45人、40人、30人、20人」と神に求め、ついに「その10人のためにわたしは滅ぼさない。」(創世記18章32節)との神の言葉を聞くこととなった。
神の決定は変えられない、しかし、神を信頼し、神に叫び、神に祈るその祈りを神は聞いてくださる。
 10人はその町の中で何と小さい群れだろうか、4人はその町でなんと小さい集まりであろうか。しかし、神はその小さな集まり、小さな群れをその町を代表する群れとして見つめ、その祈りを叫びを聞いてくださる。この存在意味は非常に大きい。
 アブラハムが「それでは、一人の正しい人がいたら」とさらに踏み込んでいったら神はどのようにお答えくださっただろうか。「その一人の故に滅ぼさない、赦す」とのお言葉を神から聞く事が出来ただろうか。

まさに、神の救いのご計画は、ここにある。「一人の正しいお方の故に赦す」と宣言してくださる出来事へと歴史は流れていく。一人の正しいお方、すなわち主イエス・キリストである。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル書18章32節)
 ここに神の御心が示される。「主は誰の死も罪人の死も喜ばれない」、主の御心は主に立ち帰って生きる者となることだ。その為に神は救いのご計画を進められた。
主イエス・キリストの十字架の出来事、このお方のお働きによって救いの道、神の命を頂いて生きる道が開かれた。
「わたしはだれの死をも喜ばない。主イエス・キリストの十字架を信じ、主イエスの十字架によって、生きよ」と語りかけてくださっている。