「祈りと御言葉に」
「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
(使徒言行録6章4節)
新しい年の歩みが始まった。この新しい年も様々な問題にぶつかりながら進んでいく一年になる。
問題の起こらない人生はないし、問題のない教会もない。 新しく生まれたエルサレム教会は順調に成長を続けていったわけではない。
教会の外に内に大きな問題が常にあり教会は揺り動かされる。
問題のない教会はない。そこに人間が集められている以上、問題は起こる。そこで問われる事は、どこに立っているかということだ。御言葉に確信をもっているか、御言葉に聞き、御言葉を信頼しているかどうかが問われる。そうでないと問題に振り回されて信仰も揺らいでしまう。
エルサレム教会に起こった問題は食料などの分配についてだ。
一節に「ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」とある。
異邦人社会に生まれ育ったユダヤ人はギリシャ語で話し、イスラエルで生まれ育ったユダヤ人はヘブライ語を話す。ヘブライ語を話すユダヤ人が優位であったことが示される。ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめが無視されていたというのである。教会の中でもこんな問題が起こるのか、という現実が示される。単にやもめが無視されたという問題にとどまらず、教会は分裂の危機にあったと言える。
この危機の中で最初の教会は進展していく。危機、それは教会の内部だけの問題ではない。外には教会に対する大迫害が起こる。この迫害に対抗する力は、教会にはない。迫害の中で逃げる以外にない。
しかし、逃げていった信徒たちによって異邦人の地に次々と教会が誕生していく。
教会を襲う問題の只中で、いや問題が起こっても、むしろその問題が新しい教会の進展の力となっていく。その原動力が示される。
「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
(使徒言行録六章四節)
「祈りと御言葉に専念する」とある。
教会に様々な問題があったとしても祈りと御言葉が中心にある教会である時、恐れることはない。
最初の教会は問題を抱える中で、迫害の中で成長する。その力は御言葉への確信である。
私たちの歩みも同じだ。この一年も新しい問題が起こり、時代の波に翻弄されたり、挫折したりするかもしれない。しかし、生ける神の御言葉への確信があれば恐れることはない。
越谷教会月報「みつばさ」2009年1月号より
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