「神が負ける」
「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
(創世記32章29節)
ヤコブはヤボクの渡しで何者かと格闘した。「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打った」とある。
この何者かとは神である。神が負けている。神が負けるということがあるのだろうか。
ヤコブは必死だ。ヤコブに大きな不安がある。兄エサウが四百人と共にこちらに向かっている。この兄をヤコブは怖れている。かつて、兄を騙し、父を騙し、長子の特権を奪ったからだ。兄が襲い掛かってくるかもしれない。
ヤコブは必死に神と格闘し、神の祝福を、神の助けを得ようとする。この格闘で神が負けてくださった。神が勝ったらヤコブが死ぬ以外にない。神は負けてくださる神である。神との格闘の中で示される事は、ヤコブの罪である。兄エサウの存在がヤコブを苦しめている。しかし、兄ではない、ヤコブの罪が克服されなければならない。
ヤコブに負ける神は、実はヤコブの罪を背負う神である。まさに人間になられた神だ。
主イエス・キリストの十字架が指し示されている。
ヤコブは長子の特権を得、神の約束の中に生きている。しかし、その罪が無くなったわけではない。この罪がヤコブを苦しめている。
故郷を前にして、今、この罪が死の恐怖となってヤコブを襲い、深い闇の中で苦闘する。この罪が克服されない限り、ヤコブに希望はない。
主イエス・キリストは真の人になってくださった。マリアを母として生まれ、十字架に死んだ。人間の目には敗北に見える。しかし、主イエスは人間の罪を背負って死んでくださった。
ヤコブが闘った相手はこの主イエスと重なる。
神は「お前の名前は、何と言うか」とヤコブに問う。彼は「ヤコブです」と応えた。この問いはヤコブの罪を問う問いである。まさにヤコブはヤコブである事に苦しんできた。ヤコブは狡猾であり人を騙し陥れてきた。罪のヤコブ、ヤコブであるが故に苦しんできた。
その罪が赦される以外に神の祝福を受ける道はない。
「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(創世記32章29節)
「お前はヤコブではない」とは神の赦しの宣言だ。もう罪に苦しむヤコブではない。神に勝つとは罪を背負う神の姿が、十字架の主が示され、主イエス・キリストによって罪に勝つものとされた。神の救いが、負ける神の中に強烈に示される。
越谷教会月報「みつばさ」2009年10月号より