みことばに聞く
    
「死は勝利にのみ込まれた」

 



「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 
(コリントの信徒への手紙T15章54〜55節)



  私たちの人生はどのようにこの世で評価される人生であったとしても、やがて終わりの時、死の時を迎える。志半ばで死を迎え人生のはかなさを思い知らされるということもある。
 私たちの人生が死にのみ込まれてしまう。
 愛する者が死にのみ込まれた時、おびただしい涙が流される。
 しかし、その涙がぬぐわれて、大きな希望が御言葉に示される。
 死にのみ込まれる絶望を思い知らされる人間に、死からの救いの言葉が響く。
 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 死に勝利した感動が歌われている。高らかに勝利の歌が歌われている。
 救いの喜びは死に勝利する喜びとして歌われている。
 「とげ」、人間を苦しめるとげ。
 死が、とげが勝利にのみ込まれたと歌われる。
 私たちの人生に様々なとげが突き刺さる。
 パウロは「わたしの身に一つのとげが与えられました。」(コリントの信徒への手紙U 12章7節)と語っている。パウロに突き刺さったとげとは病気だ。このとげはサタンの使いだというほどにパウロを苦しめた。
 それはサタンの使いとしか言いようがないほど人間を苦しめる。

 


 そのようなとげがわたし達の人生に突き刺さる。このとげの最大のものが罪だ。そして、罪の結果としての死である。
 このとげが勝利にのみ込まれてしまったと喜びの歌が歌われている。
 罪のとげは一番厄介だ。なぜなら神の前に犯した罪の深刻さを理解することができない。しかし、この罪こそが神と人間の関係を引き裂き、大きなとげとして人間に突き刺さり、滅びの中に人間を引きずり込んでいく。人間が死にのみ込まれて朽ちていくのは、罪に原因があった。主イエス・キリストは罪のとげを担って十字架に死に私たちの罪のとげを取り去ってくださった。
 死にのみ込まれる人生、とげにのみ込まれる人生が、復活の主の勝利にのみ込まれたのだ。
 「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネの黙示録14章13節)
 主に結ばれて死ぬ。復活の勝利の主に結ばれて死ぬものは幸いだ。復活の命に満ちて永遠の世界に迎え入れられるからだ。


  

  越谷教会月報「みつばさ」2009年11月号より