「神はどこにおられる 」
「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは預言者も言っているとおりです。」
(使徒言行録7章48節)
神はどこにおられるのだろうか。神はどこでわたし達に、出会ってくださるのだろうか。
建物が人の心を捕らえるということは確かにある。
エルサレムの神殿は人々の心を捕らえ、信仰の中心となった。
しかし、ステファノは、神の言葉が示され、命が奪われるという状況の中で、神の言葉を、その真実を語る。
「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは預言者も言っているとおりです。」とイスラエル最高法院で、自分を裁く議員達の前で臆することなく語っている。
すなわち、彼らが「ここに神がいます」と信じ、その信仰の中心である神殿について語っている。この神殿には神はおられないとキッパリとステファノは語る。
「預言者も言っている」とステファノは、イザヤ書66章1節〜2節の言葉を引用している。
「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」とイザヤ書66章2節に語られる。
苦しむ人がまず初めに来ている。神が苦しむ人と共にいてくださるということは、大きな慰めだ。しかし、ただ苦しむ人ではない。それに続く御言葉が重要である。「霊の砕かれている人、神の言葉におののく人」が結びついている。ただ苦しむ人ではない。
ここには赦されない罪、とうてい赦されない罪をも赦す神の業が示される。
ダビデ王は重大な罪を犯した。自分に仕える重臣ウリアの妻を自分のものにして、子どもを孕ませた。その罪を隠す為にダビデ王は卑劣な命令を出す。
「ウリアを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」(サムエル記下11章15節)と。ウリアは戦死した。
神はこのダビデ王の罪を預言者ナタンを用いてするどく指摘する。
ダビデ王は神の言葉におののき、心が打ち砕かれて、神の前に罪の赦しを求めて祈った。
自分の罪に苦しみ、赦しを求めるダビデ王の祈りを神は聞かれた。
自分の弱さに苦しむ人、弱さの故に罪を犯してしまう人、神の言葉におののいて罪の赦しを求める人と共に神はいて、その罪を赦される。この赦しを経験する時、生ける神が、十字架のキリストにおいて、わたし達の内にいますと告白することができる。
越谷教会月報「みつばさ」2009年3月号より
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