みことばに聞く
    
「悔い改めて、主に祈れ 」

 



「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、
赦していただけるかもしれないからだ。」
(使徒言行録8章22節)




  神はイスラエルをわが娘と呼んで愛した。イスラエルの歴史の中に神は憐れみの神、恵みの神としてご自身を現された。
しかし、この愛する娘なる神の民は偶像を拝み、父なる神に逆らい罪を犯した。この赦されない罪を重ねる民を、神は怒り裁かれる。怒り、裁くとき、神のお心の内にあるものは深い嘆きだ。
「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる。」(エレミヤ書8章18節)神の御心が記されている。
罪を犯したにもかかわらず、悔い改めて主のもとに立ち帰る事が出来ない民と、その民の悲劇に痛み苦しむ神の姿が示される。
 神は怒りに燃えて、裁き去り、思い知ったかと言われる神ではない。
 そうではなく怒りの内にあるものは深い嘆きだ。そして、ついに、愛の神は、赦せない人間の罪をご自分で背負い、十字架に死んでくださった。使徒たちは、この神の業を殉教を恐れず語り続けた。
 この福音は悔い改めなき人々の中に強烈に響いた。多くのユダヤ人が悔い改めて洗礼を受けていった。

 しかし、洗礼をも自分の商売の道具にしようとしたものがいる。
 魔術師シモンだ。フィリポに働く聖霊の力に驚き、その力にあやかりたいと洗礼を受けた。さらに、「自分も手をおけば聖霊を授けられるように、その力を授けてください」と使徒の前にお金を持ってきた。自分の商売に役立てようとした。神の愛の業を踏み躙るものだ。
 洗礼を受けるという悔い改めの行為の中に自分の欲を働かせ、神を偽った。これ以上の罪はない。
 神を利用して自分の欲を満たす。これはとうてい赦されない罪だ。
 主イエス・キリストの十字架の赦しの愛を踏み躙る行為だ。キリストの十字架を否定する行為だ。洗礼を受けるという行為においてキリストの十字架が否定される。
 神の業を侮辱してどこで救われるだろうか。
 「悔い改めて、主に祈れ」との御言葉が鋭く響いてくる。
 主イエスがエルサレムに入城されるとき、「ホサナ、ホサナ」と喜び迎えた民衆の喜びの叫びは、やがて「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶ声に変わる。
 神の言葉を、神の業を知りつつ人間の思いが第一になる。どうしても神を神として信じ、受け入れることができない。尊い神の愛の業も簡単に否定してしまう。
悔い改めることができない者に、わたし達に、聖書のみ言葉が響き渡る。
「悔い改めて、主に祈れ」そうしたら「赦されない罪も赦される」。


  

  越谷教会月報「みつばさ」2009年4月号より




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