どうぞよろしく  榎本壽子
   今から約四十年以上も前 の事になりますが、高校を 卒業してすぐに加須にある 社会福祉法人「愛の泉」に 就職いたしました。事務員 として二年、寮母として一 年勤めさせていただきまし た。 私がキリスト教に初めて 出会ったのは「愛の泉」と 同じ敷地内にある愛泉教会 でした。そこで藤崎五郎先 生より洗礼を授けていただ きました。それは十九歳の 誕生日を迎えたすぐ後のクリスマス だったと思います。その時私の緊張 した様子を側で見ておられた宣教師 のキュックリヒ先生や、施設長の岡 安寿々さん(御二人共すでに天国に 行かれました)が、励まして下さっ た事を今も感謝の念と共になつかし く思い出します。
そのなつかしい思い出の教会(ド イツ風の木造建築の礼拝堂)が老朽 化のため近い内に取り壊されてしま うと言う事を、貴田長老から伺いと ても残念な思いがありました が、仕方がありません。それ ではせめて写真だけでも撮っておき たいと思い夫と二人で愛泉教会を訪 ねました。 教会堂は外側から見ただけでは昔 と少しも変わっていませんでした。 何枚か写真を撮った後森田弘道牧 師・愛香御夫妻をお訪ねしました。 当日はバザーが開かれていて施設 内は大勢の人で混み合っていました が御夫妻は私共を快く迎えて下さい ました。
「愛の泉」でお世話になって三年 程経った頃、両親から家に戻ってく る様にとの希望があり、私はもう少 し「愛の泉」に留まりたかったので すが、親の言葉に従い家に戻る事に しました。その時教会の籍も越谷教 会の方へ移していただきそれ以来お 世話になる事になりました。
二十代の半ばで結婚してからは子 育てや、親がら引き継いだ店の仕事 に追われ、ほとんど礼拝に出席する 事もなく過ごして来ましたが、その 間、保坂さんや高橋幸悦さんのお宅 で家庭集会が持たれ私も出席してお りました。 石橋先生・由美子御夫妻やハコネ 先生がお見えになり楽しい集会でし た。昨年暮れに店を閉じてからは時 間の余裕も出来て礼拝に出席出来る 様になりました。
「ともしび」の会にも加えていた だき、会員の皆様と一緒に川端先生 から聖書を学ぶ機会が与えられた事 は、大変うれしく感謝です。又平成 園のボランテイアにも参加して、長 尾立子姉や田中郁子姉をはじめ他の 皆様に教えていただきながら楽しく やらせていただいております。
昨年(2001年)は私にとって 新しい一歩を踏み出す事になりまし た。皆様、どうぞよろしくお願いい たします。 (みつばさNo.214号より)
越谷生活  清水泉
   越谷教会へ転会して丸2年、教会学校へ二人の子どもを連れてくるようになって五年がたちました。長女の百合香は、越谷の卒園生ではなかったので、心配していましたが、お友達に「ねえっ、なにばらだった?」と聞かれ、「しろばら」と平気で答えていたそうで安心するやら驚くやらで、わが子ながら子どもはすごいっと恩ってしまいます。創は、年少の時はCSだけ出席させていただきましたが、泣いて泣いて抱っこして礼拝をしたこともありました。園児になるとすっかり慣れて、「今日はネ、トトロの先生がね(佐藤祐子先生)ボカ チンボカチンてお友達をたたくとお心がまっくっくうになっちゃうんだって」とお話ししてくれたりしました。二人は、五年生と二年生になりましたが、CSや、CSの先生方に本当に育んでいただいていると思います。
 私の方は、中等科の第一週の奏楽と大人の礼拝の奏楽をさせていただいています。技術が伴わないのと、緊張で、皆様には多大なご迷惑をかけてしまってい ます。中等科の依頼があった時は、外部牧師の説教で「強いられた恵み」と題するお話の後で、本当にグッドタイミングでした。夫は、今年役員に選出され、各委員会等もご奉仕させていただいています。
 越谷教会へ出席するようになって、二人の成長は元より、私達夫婦にとっても、ゆったりと日曜日を過ごせることが大きな喜びでもあります。  CSの送り迎えをして、主礼拝に出席しても、帰って家で昼食をとる ことができるのです。時にはお弁当を持って、福祉村へそのまま直行し、午後は目一杯子どもと遊ぶことができるのです。これにはもう感激です。前日の土曜日にCSの支度を整えている時、創は、「お父さん明日遊べる?」と嬉しいことを聞いてくれるのです。遊べるとなるとごそごそとグローブと野球のボール、 バット、フリスビー等を引っぱり出して、玄関に置いておくのです。なるべく礼拝後の集まりや各会等へは、二人が同時に出ないようにしていますが、最近では、私よりも夫の方が、各会へ出席することが多くなり、残念がられることもあります。
 それでも我家ではラジオをよく聞くのですが、ユーミンのサウンドアドベンチャーが始まると「これを家で聞ける!!」とまたもや感激してしまうのです。
 五年生と二年生。この先あと何年一緒に遊べるかしらと思います。こちらの体カの限界もありますが、こんな風にゆったりと過ごさせていただき、支えてくださる教会員の皆様、転会の機会を与えて下さった神様に喜びと感謝でいっぱいです。 (みつばさNo.213号より)
お調子者  一柳茂樹
  九七年春に元荒川沿いで遺影にしてくれと、満開の桜の下で一枚。 今見てもその写真は、桜とは対照的に顔はポーツとかすみ、精気が感じられません。
 九五年春に腎臓ガン手術、九七年一月に腰の激痛、第四腰椎に転移、 ドクターの見立ては、骨の半分以上がスカスカ。余命六カ月、死は視野に入っていた。 その日のうちに腰への放射線。一〜二分で終わり帰宅。妻と一緒だっが何を考えながら帰った のかは憶えていない。ただテンションだけは高かった。「来るならこい!この野郎」的な見え ない敵に構えていたような気がする。が、それも束の間、徐々に死におびえ始める。夜、枕 を濡らす日がふえる。
 この時、必死で祈ることが他人事でなくなりました。できの悪い信徒の常ですが、 ただ全てを委ねるのではなく、私はそこで取引をしていました。当時、私はヘビースモーカー、 ヘビードリンカー。酒は止められてもタバコは無理と思っていました。訴ました「タバコを止め ますからどうか助けて下さい」と。私の信仰生活の原点はここ一点にあります。もちろん、タバコ と引き替えに生を与えて下さった-そんなケチな神ではないでしょうが、ただ頭を下げ、呪文の ように「医師の手に負えなくなっていますが、神ならこの八方塞がりをブレークスルーし癒して 下さる。あなを信じます、助けて下さい」と訴えると、身が平安に包まれる、とがった神経が丸くなって くる―そんな安らぎを全身で味わった時期がありました。
 神がガンを撃つために私に先んじて出陣して下さった、神は肉の癒しを通し、私の頑なな 心に風穴をあけて下さった。医帥は予想に反し、私が長生きしていることに対して「 インターフェロンが良く効いています。珍しいケースです」と、ありきたりのコメント。 私は頭を下げ、サラのように笑っています「インタ一フェロンのせいではないよ」と。
 私に起こった強烈な奇跡も時とともに風化しているように思えます。 助けてもらったのに、私は運が良かったんだ、という思い上がりが頭をもたげ始めています。 モーセに率いられ、エジプトを出た民が、神の業をいやというほどみせつけられても、 困難に山会うと不満、不平たらたら。マナを与えられても肉が欲しいと訴える。 主はうずらを積もるほど降らして下さるが、不実な民を主は激しい疫病で打たれた、 とあります。誰がこの民を笑えましょう。まさに私そのものです。
 神の御前にへり下る、危急存亡の時、神に助けを求める、必死で祈る。 でもこの祈りは悲鳴に近いものでしょう。そうではなく、ただ印を求めるのではなく、 心平安な折りでも静かに祈る、神の義を五感で受け取り、その福音に感謝する。 そんな"大人の信者に脱皮できたらと思います。 (みつばさNo.212号より)

BACK