聖餐式ごっこ  高桑真代
  両親にくっついて子どもの頃から教会に行っていた 私にとって、両親がパンとぶどう酒を口にする姿は幼 な心に憧れでした。「大きくなったら大人のクリスチャン になりたい」と口癖のように言っては、パンを小さく切り 「アーメン」と言って食べる『聖餐式ごっこ』をして大人の クリスチャンの気持ちになってい た私でした。 大人のクリスチャンになりたいと思っていた私ですが、 聖書のことはさっぱり分からず、唯一知っているのは 「マンガ聖書物語り」を読んで理解している程度。 しかし大好きな教会、そして大好きなイエス様に導 かれ、自然に受洗への道を与えられました。 初めての聖餐式は『聖餐式ごっこ』で練習していたとはいえ、 思った以上にドキドキして、もどかしい気持ちだったのを 覚えています。 受洗して聖書を開くかと思 いきや聖書を開くのは礼拝の 週一回。部活が忙しくなると礼拝を まもれない日も増え、聖書から益々 離れてしまいました。しかしそんな 私でもイエス様は暖かくみまもって くれました。 保育者になりたいと思い自然と導 かれたキリスト教保育を学ぶ学校。 その学校では毎日礼拝があり、よう やく毎日聖書を開くようになりまし た。それでもやはり聖書のことはち んぷんかんぷんでした。 昨年の4月に越谷幼稚園に導か れ、その矢先の入院。落ち込む私に イエス様は一つの壱言葉を与えてく ださいました。 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。」 (テサロニケの信徒への手紙一 5章!6節〜!8節) このみ言葉は私の落ち込んだ心に ぐさりと刺さり、そして自然と涙が あふれてきました。暖かく見守って くれている越谷幼稚園の先生方、 祈ってくれている子ども達。そして 沢山の人が祈りをもってくれている 事、両親が支え、イエス様が支えて くださっている事が喜びで、そして 感謝でした。 聖書のみ言葉がさっぱり分からな かった私も、受洗して8年目に大好 きな今言葉が与えられました。 壱言葉のようにはいつも喜んでい られず、イライラしたり、怒ったり する事の多い私だけれども、このみ 言葉を心にしまい、喜び、祈り、感 謝を忘れず毎日を過ごしていきたい と思っています。 『聖餐式ごっこ』は卒業したけれ ど、聖餐式を受けるたび、イエス様 の愛を感じる日々です。 (みつばさNo.217号より)
神を信じて  進藤ヒロ子
  越谷には、昭和40年11月7日、夫の仕事の関係で、引っ越して来ました。其の時は、越谷教会の皆様と交わる事等考えられませんでした。私にとって教会とは、余りにもありがたく、しきいが高い様な気もしましたし、近く迄行っては帰って来た事もありました。聖書・キリスト・教会等、何も分からない私にとっては、どうする事も出来なかったのです。 小さい頃から「神」と言う言葉は、耳にした事はありました。だけど、自分が求めている様な神ではない様に思っていました。世には、花が咲き、体を造り、小とりが飛んで、これらを造った者は神であろうかと、思い続けて来ました。年を重ねる毎に、不思議さもつもりました。 私が生まれ育った田舎は、佛教の教えが強く、キリスト・聖書等知らない人達は、いっぱいいます。まして、神の存在すら分からない人達は、多くいると思います。しかし、田舎の佛教の教えを信じている親戚の人達に、どの様にあかそうかと悩みました。其の時、娘の方が先に神を信じ、洗礼を授かったと告白されました。母親(私)が夫を亡くして苦労している姿を見て、幸せにするとの決意だったそう です。私も娘の話を聞きまして、それから間もなくして神を信じる事にしました。そして、息子・親戚にも話す事が出来まして認めて頂き、心から感謝いたして居ります。  私は15年前に真の神に導かれて洗礼を授けて頂きました。聖書の神と出会わせて頂いたのは、時があったのだと信じて居ります。それには今日まで70年間生かされて来た中でも、試練又苦難は、数知れずありましたが、聖書の中には、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙1 10・13)と示してありました。  今迄の事を考える時、聖書の神にめぐり会えて、又、牧師から聖書の一頁、一頁のみことばを頂くたびに、胸がいっぱいになり、感動します。又、越谷教会においては、今では、皆様の温かい導きがありまして、入会・交わりが出来た事、心から感謝いたして居ります。  これからも、永遠に神を信じ、祈りをとおして、学んで行きたいと思っています。これからもよろしくお願いいたします。 (みつばさNo.216号より)
主が用いて<ださった  大野アイ
   兄弟が日曜学校(当時は こう云われていた)へ行っ ていたので、末っ子のわた しは母に連れられてクリス マス祝会などに出席した様 です。母はクリスチャンで はありませんでしたが、幼 い子ども二人を亡くして悲 しみの日々を過ごしていた 時に、近くのクリスチャン が聖書を持ってきて下さっ たそうです。読んでいるう ちに一つの御言葉に出合 い、それを支えに生きてき たと話していました。もと もとプラス思考の性格で、私達にも その方向で育ってほしいと願ってい た様でした。
 幼稚園時代からずっと育んで下 さった小さな町の教会。青年会が中 学科を交えて毎週土曜日の夜、牧師 館に集まって、聖書研究なる学びの 場を作ってくれました。中学生でも 司会をつとめたのです。讃美歌を選 び、お祈りも凡て当番に当たった者 がしたのです。
 聖書講話をして下さった先生は、 山奥から毎週いらして下さいまし た。呼びかけしなくても、必 ず定刻になるときちんと十五 名以上は集まってきました。楽しい 良き時代でした。数年後、牧師先生 が替わって、青年会で礼拝のお手伝 いをする様に云われ、司会、献金当 番が決められました。ところが決め られた通りに当番の人が礼拝出席を してくれないので、わたしはいつも 司会を覚えて教会に出席しました。 礼拝出席十数名の教会でしたから、 そんな事もお許しいただけたのかも しれません。
 越谷の地に導かれたのも、本当に 不思議な神様のお取り計らいでし た。特別伝道集会で長尾己画伯が招 かれたのです。その頃結婚して住ま いをどこにと決めかねていたのです が、越谷には長尾己先生ご一族がい らして、丁郎牧師が牧会しておられ ると勝山牧師よりお聞きして、即決 めました。神明町には会社の倉庫が あり、そこに留守番として入りまし た。凡て用意されていたのです。五 年半程して現在の家に移ってきまし た。
 四年間の役員のご用もさせて頂き ました。第一礼拝が設けられて間も なく、献金当番をと山崎ハコネ牧師 よりお話が有り、司会もいいですよ と云ってしまいました。何の取り柄 もない者を、ここで神様は再び用い て下さいました。
 星野富弘氏がキリストに出会い、 ご目分が変えられ、生きる希望を持 たれた詩の中で
 『いのちが一番大切 だと患っていたころ生きるのが苦し かった
 いのちより大切なものがあ ると知った日生きているのが嬉し かった』
と詠んでいます。
 わたしの六十余年の歩みの中で、 多くの困難に遭遇した時、「神様の み手の中であいはたらきて益とな る」との礼拝でのメッセージで、ど んなになぐさめと力を与えられたか 分かりません。苦しみを通して神様 は多くの祝福を下さいました。今、 神様のぬくもりを少しでもお返し出 来ないかと思っています。 (みつばさNo.215号より)

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