病をえて                              山中律子
 詩編16・7〜11は私が乳癌で入院手術の時、お忙しい中、石橋先生が私の 為に選んで下さり病室で祈って下さった時のものです。繰り返し繰り返し読ん で味わい祈りました。
人間の体は本当に微妙に出来ているなと思います。栄養と休息と睡眠そして運 動、バランスがとても大事だという事が良く解ります。七年前夫が倒れ「すぐ 車椅子の生活がいいですよ、段々に動けなくなります」という医者の言葉に 驚きながら、立ち上がり歩行練習から始まり、体に良い事は何でもしようと、 気功や管足法の整体を受けビワ温熱療法をし、H栄養食品を食べ画期的に 夫は良くなって行きました。その中でH栄養食品との出合いは私にも 衝撃的なものでした。
 H栄養食品とは、人間の体は正しく栄養を体の細胞のすみずみまで届けられると、 人間が本来もっている免疫力や治癒力が増して元気になれる、そんなシステム 持った栄養食品なのです。
 まず私の身体の10sのダイエット、そしてこれはすごいと思った私は、性格も ありますが周りが見えなくなって、これがあったら地球が変わる人間が変わると 単細胞に思ったのです。私は種々な人に紹介し始めました。自分の夫が倒れた 事による経済的不安から経済的にも必要な事だと思ったのです。自分が誠意を 持って伝えれぱ解ってもらえると勝手に思い込み走り始めました。でも十人十色、 セールスという仕事は私には重かったのですね。夫の病気を助けながら仕事を するうち荷が勝ちすぎて頭が混乱し始めました。中々整理が出来ない、やれない、 頭は同じ所をぐるぐる回り始め小さな事でも判断出来なくなりました。
 石橋先生が「それは病気だよ、すぐ医者にいかなけりゃだめだ一緒に行こう」と 連れて行ってくれました。そして治療が始まりました。でも少し良くなってくると 薬がきいているという事が解らなくなって、早く治らなきゃ、もう大丈夫と自分の 判断で薬を止め逆もどりしてあせり、段々うつ状態が深くなって病気を重くしました。 石橋先生に再度ちゃんと治療しないといけないとうながされ、娘達に送り迎えされ ながら長いトンネルをくぐりました。気がっくと五年の歳月が流れていました。
 思い返すと、その間混乱した中にあっでも、礼拝に招かれみ言葉に養われる 幸いをいただきました。今回この手術に際しても必要がすべて整えられて臨む ことが出来ました。種々な事に右往左往してしまう私ですが、絶えず主が導き 整えて思いをはるかに越えて豊かに備えて下さると確信いたしました。
 私の為に石橋先生始め皆様にいつもお祈りとお支えをいただきました事感謝 いたします。(みつばさ11月号より)
 僕の信仰一人よがり                        貴田陽一
 ひとりよがりで酔っちゃって、とわたしの友達言うだろな。
 そしていつまでキリストに酔ってんの、て言うだろな。六つのときに日曜学校に行って、 そからま-だ教会に行ってる。おれたちとっくに卒業しちゃったのにさ。
しかし不思議と友達や、かつて勤めていた会社の同僚は、評して、「ネバリのキーさん」と言うんだよ。 そう言われりゃそうかな。教会生活一つとっても六十二年。休まないでつづけてる。 十三の時からやっている野球だって、還暦野球の仲間たちと、萬年青年と赤で書いたユニホームに、まっ赤な帽子でまだやってる。 堀内敬一二、村田武男、みながわたつを、三人の歴代の解説者の、日曜朝の「音楽の泉」を五十年も聴いている。ハーモニカ歴も五十年。
 そうか「ネバリのキーさん」と言われてもしょうがないか。それに落とせないのが、合唱団歴 五十年、その合唱団の幹事歴も五十年。楽譜も読めず、時々音もはずしているかも知れないのに良くぞ仲間に入れてくれているもんだ。合唱団の方が「ネバリの-さん」だ。
 教会では、父のあとをついで、何年会計やってんのー。
 まだまだあっけど(あるけどの放言)もういいよ。だけど言っちゃおか。シルバーコーラス指導二十年。越谷市俳句連盟二十年、あゝ疲れた。だけど九月は入院だ。五十三年働いて働いて、いや働かせていただいて、連続一週間休んだことの無いわたしに、三週間も休みが与えられる。だからゆっくりさせてもらうんだ。だからそのゆっくりをさまたげないよう、誰も見舞に来ては駄目。
 →主題は「主に生かされて」じゃないの。これじゃ自分のことばっか り言ってるじゃないか。
 だけど一つだけあるんだ。それはわたしのかかわる団体やグループのために祈って、祈ってやってんの。例えば合唱団のために、団員のために、どんなに祈って来ただろう。 所属野球団のために祈って来ただろう。シルバーコーラスのために、どんなに祈って来ただろう。人様の前でハーモニカ一曲吹くためにもどん なに祈ることだろう。
 そうすると、不思議に不思議に力が与えられる。僕にはイエスさまがついていて下さる、と。
 このひとりよがりの信仰を、神様はネバリ強く見守っていて下さっているみたい。今、わたしは教会の皆さんに祈られているんだ。 (みつばさ10月号より)
 足跡を辿って                        H.S
 私は子どもの頃、よく両親と池袋の立教大学キャンパスの地続きにある雑木林の中程に大叔父(小林吉保牧師)が献堂した東池袋教会の礼拝に出席した。教会学校と、幼稚園の子ども達で賑やかだった。説教に講演に賀川豊彦牧師、恵泉女学園の河合道子先生他著名な方が見えていた。立教大学の学生も来ていた。教会の台所兼食堂がとても広く、よく労働者風の人達に教会の婦人部で食事を出していて、飯場の様な雰囲気で暖かい御飯や味噌汁、魚の切り身、質素だけど牧師夫妻家族、私たちも皆一緒でおいしかった。入り口の処に感謝と書いてある箱に、日給の一部を献金して帰って行く。何時の頃か誰かの発案で実現したと聞く。
 大叔父は父の叔父で、開拓伝道の牧師で、主として関西を中心に大阪、京都、明石で教会を建て献堂して来た。関東では静岡県の函南、東京では栗池袋教会、練馬区豊玉桜台教会が終生の献堂となる。(後日教団を脱会)関西では地域的に困難な場所に献堂している。開拓伝道にも色々とある様だ。私は実際を知らず、牧師の説教、父の話と僅かに東池袋教会で体験した位で違っている部分もあるかも知れない。
 牧師夫妻の日常は公私の区別なく本当に忙しい日々。すべてに質素で、母が云うのには叔母の箪笥は何時も空っぼで質屋さんと仲良し。着たきり雀では立場上失礼になるので、母が質屋さんに頼んで質流れをストップ、先方も心得て待って呉れたとか。父もその無頓着ぶりに苦言をしていた様だ。父は大叔父を尊敬し牧師を志していたが、家が没落し、生活の為に頭脳明蜥だった父はプロの柚場師穀物仲買人としてリスクのともなった事ではあったが、メリットもあり、大叔父の伝道の、ある面ではよきアシスタントになれた事を心の支えとして失意にあった心も癒されたのではないだろうか。
 所沢教会に戦後赴任していた大叔父のそばで私はたっぷりとキリスト教精神を教え込まれた。今私は大叔父の足跡を父が共に歩んだ道を辿る時、その苦労が忍ばれる。私は大叔父に伝道する時はどの様な気持ちでするのか尋ねた時、荒地を耕し種を蒔き、稔りを見届けて次の任地に行くとの言葉に感動した。自らも荒地を開墾した手は太かった。信徒の祈り、献金に支えられて感謝だったと心からの笑顔がなつかしい。
 今、越谷教会は第二礼拝堂の未来像を実現する為に一生懸命頑張っている。貴田長老のメッセージを拝見して、現実感が持てなかった私は、反省しつつ後五年間の返済数字を見ると気が遠くなるが、でも先は見えている。私もベストをつくして、数字を見ると眠くなるなんて言ってられない。会計を預かる方々の御苦労に感謝の心を持って。(みつばさ9月号より)


BACK