私の居場所                       荻田香世子
 右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい…と育てられた私は、辛いときももっと頑張ろう、もっと身を尽くそうと思い続けていました。でも辛かった時、よく夜中に父の写真の前で、神に祈り父にすがっていたものでした。
 だからかも知れません…一番悲しみ弱っていた時神様が教会へお出でと呼んでくれたし、仕事を見つけようと躍起になっていた時私の大学へお出でと天国で父が呼びかけてくれました。
 仕事を探していたときです。本屋で就職情報誌をパラパラと捲っている私の目に2×3cmのほんの小さな情報が飛び込んできました。〈N大理工学部機械工学科教授秘書募集〉…早速本を買い求め、そこに電話をしました。話をして行く内に、教授の方がびっくりされ「此処は、そのあなたのお父さんの研究室だったところですよ!」と。即採用となり、それから私は父の使っていた机に座り、父の眺めていたニコライ堂を目の前に仕事をしています。仕事では好きだったパソコンが役に立ち、教授から頼まれた事は何でも、たとえわからないことでも本を読みながら消化してきました。今では経理や論文清書は基より、図や式の清書・ホームページ・ネットワーク管理・プレゼンの資料などなど様々なことが出来るようになりました。また、父から何時の間にか受け継いでいたのか、学生達との交わりも出来、お母さん(?お姉さん)のように慕ってもらっています。
 「われに来よと主は今」と主が呼んでくださった教会でも、私は石橋牧師や教会員の方々のあったかい羽の中に居場所を見つけました。毎週の礼拝の時はもちろんのこと、その他にも色々なことに参加させて頂き感謝でいっぱいです。聖歌隊、オルガン奉仕、ホームページ作成(幼稚園のも!)、伝道牧会部。
 そしてこの度はこの「みつばさ」にも呼んでいただき、見習いとしてお仲間に加えさせて頂きました。ホームページには「みつばさ」から様々な文章を転用させていただいておりますが、この度この委員会に参加してみて、編集というものがいかに大変であるかを知りました。
 また、私生活においても教会にて良き伴侶を与えられ、日々の生活の居場所を見つけられました。自分を抑えないで私らしく生きられる心の自由を満喫しています。
 こうして私は今教会に於いても、仕事に於いても、家庭に於いても、活き活きと生かされているような気がしています。神様が備えて下さった「私の居場所」をこれからも大切にしていきたいと思っています。
                     (みつばさNo.229 5月号より)
 
私の進路                         石橋愛香
 私は、4月4日から大学生になります。
 私の進路は夏の終りには決定していました。私は高校1年生の初めの頃までは、幼稚園の先生になるか、父のようになるか、どちらかになりたいと思っていました。しかし、私の決定した進路はそれとは全然違う服飾の大学(杉野服飾大学)です。
 私が服に興味をもち始めたのは、幼い頃から。母に「これを着なさい」と服を渡された記憶はなく、おさがりでもらった服から目分が着たいと思う服を取り出して(コーデイネイトして!!)着ていました。お気に入りの服があれば、その服を毎日のように着ていて、着たい服がないと外に出ないという感じでした。
 そんなふうに小学生、中学生をすごし、高校1年生のある日、突然母が「うちには古いミシンしかないし、壊れかかってるから新しいミシンを買いましょう」と言って最新のミシンを買ってくれたのです。これが私とミシンの出合いです。今思うと、この出合いがなけれぱ、服飾の道にはたぶん進まなかったでしょう。このミシンに出合わせてくれた母に心から感謝しています。
 こうして私の部屋にミシンが置かれてからというもの、学校帰りに浦和のユザワヤに寄り、生地を買っては時間を忘れ夜遅くまでミシンを動かして服をつくっていました。私にとってミシンを動かしている時間は、幸せな時間です。頭の中に服のイメージを浮かぺ、ワクワクしながら動かします。完全に自分の世界にのめり込み、まわりが見えなくなってしまう(笑)そして服が完成した時。素晴らしい!最高潮に幸せです。早く着てみんなに見せたい!!と心が躍ります。
 私がどんなに服(服づくり)が大好きか、みなさんに分かってもらえたでしょうか!?一でも私の場合、大好き止まりにはしたくなかった、ただの興味で終わらせたくなかったのです。今の服づくりは全て独学、自分の感覚でつくっています。服飾の大学に入り、服づくりの基本をしっかり身につけ、服飾を深く学びたいと心からそう思いこの進路に決めました。
 しかし私の中に不安がありました。それは、服飾と神様はどういうつながりがあるのか?服飾を通して神様を見ることができるのか?という不安です。でも私がこの大学に受かったのは神様が導いて下さったもの。きっと神様とつながっていると信じ祈っています。
 私の中にはこれから始まる素晴らしい大学生活の期待とたくさんの不安があります。でも神様を中心に共に進んで信けば大丈夫!強気!強気で突き進みたいと思っています。
 最後に、私の行く道を神様に委ねます。アーメン
                    (みつばさNo.228 4月号より)



道程                            碧木浩二
 昨年の八月半ばから約半月間、高校生の語学研修のためにオーストラリアヘ30人の生徒を引率して行ってきました。興味深い多くの体験の中で、カトリック教会での礼拝の印象が一番強いものになりました。
 私の一族は現在アメリカにいますが、祖父母の代迄はメキシコに住んでいました。メキシコといえぱカトリック教国で、当時はプロテスタントの人々は激しい迫害にあいました。
 1920年代に祖父は祖母に出会い、カトリックからプロテスタントに改宗しました。九人いた子どもにカトリックの洗礼を拒否したために、見せしめとして絞首刑に処せられ、二日間遺体は放置されました。
 その頃祖父に仕えていた人々や世話になっていた人々が、ひそかに遺体を山中に埋葬してくれました。このため未だに祖父の墓がどこにあるか分かりません。母の一族もプロテスタントですが、都会部のプエブラでさえ迫害が沢山あったそうです。
 オーストラリアでホームステイをした一家はカトリック信仰が中心で、子ども達もカトリックの学校へ通っていました。当然日曜日には一家でミサに行きます。私は大変な抵抗を感じつつ、同行しました。意外な事にプログラムは殆ど越谷教会と同じでした。良い所さえありました。プログラムの中で信徒が、周りの人々と握手して祝福し合うのです。これは多くの人と親しくなり、教会にとけ込む事が出来ます。
 人がどんな教会に属するようになるかは不思議な出来事です。愛子と初めて逢って越谷教会に出席したいと切に望んで度々そう言ったのですが、誘われるまでに六カ月かかりました。初めて越谷教会に出席した日、先に行っていた愛子の父に結婚の許可を頂き、石橋牧師から愛子の婚約者として紹介されました。その年のクリスマスに受洗して越谷教会の一員になれました。
 翌年八月の愛子と私の結婚式の直後、私の母は司式者の森谷和夫牧師に「今、この結婚式で聖霊に洗われて、私達一族の深い迫害の傷が消えました」と涙ながらに語ったそうです。これからも教派の違いや宗教の問題を考えて行きたいと思います。                          
                   (みつばさNo.227 3月号より)