主に生かされて

十字架と復活の主                     川端 由喜男
 私の生まれた家は熱心なホーリネス教会の信徒の家庭で、この事が生涯の歩みを決定したように思う。
 先日、小学校のクラス会(もう皆さん80才で、集まる人も10人位)で、友人が私に「君は学校の校長先生が祝日の教育勅語を読む時、皆が起立して頭を下げているのに、起立せず頭も下げていなかったのが印象深かった」と話していた。又、戦争中、靖国神社を礼拝しないという事で、大変なぐられた事もある。(昭和17年1月に、函館の小山牧師は靖国神社に参拝しないということで捕らえられ、拘置所で殺されたと言われる。同年6月に、旧ホーリネス教会系教職者達が、100名以上検挙された。それで神社参拝をしないことは、いつ捕らえられ罰せられるかも知れないと思う日々であった。)  
15才の時、新契約聖書を翻訳された永井直治先生に、お会いし、自分も聖書の翻訳に関する仕事をしたいと夢を持ち、それには聖書の勉強をしたいと神学校を受験した。神学校は伝道者を養成する学校で、そのような理由では、入学する必要は無いと口頭試問の時、ある教授に言われたが、昭和19年、神学校は全国で統一され志望者も少なかったのか入学をゆるされた。私は疑い深く、信仰の足りない者であったが、卒業までに、世の中には疑い深い人、あまり熱心でない人もいるのだから、そういう教会も、あっても良いのではないかと勝手な理由をつけ、在学中から神奈川県の教会で奉仕をした。
 在学中に結核になり(あまり結核の知識が無かった)それでも、その教会で四年働いたが、病気をぶり返し辞任し入院。4年の後、清瀬の教会に赴任した。しかしここでも2年後、病気をぶり返した。
 清瀬では、手術前、手術後の患者さんを訪問する事が多く、私も手術することが必要と思い、肺切除と成形手術(肋骨5本をとる)をした。 手術をすることによって、体力的に不都合があったり、輸血することによって現在O型慢性肝炎になっているが、それなりに病人の方々の御気持ちを察することがある程度出来るようになったと思う。
 私のように、わがままで失敗多い者が、一つの教会に40年近くも牧会出来た事は、教会員の皆さんの信仰の寛容と忍耐によると思う。教会の皆さんの信仰は熱心であった。
 又、若い時の夢であった翻訳の仕事も、多くの人々の支えによって出版することも出来た。そして東京聖書学校の教師として20年間仕えた。
 多くの人々に支えられて「主に生かされて」来た事を感謝したい。
(みつばさNo.235 12月号より)



キリスト教との出会いと今の私              遠藤 典子
 私は二十二歳で、北陸の地から教師になるために越谷に来ました。最初の学校が、越谷市立中央中学校で、今でも思い出しますが、木造の古い校舎で、周囲は水はけが悪く、大雨のたびに、バスケットやテニスコートは水びたしになり、2〜3日は水が引けませんでした。現在の中央中とはかなり違いますが、当時は、どの学校もそのようなものでした。
 そこで、新米の理科の教師として、私の教員生活がスタートしました。すべてが初めて、失敗しても当り前と、ゆとりのある時代と、周囲の人達の助けやはげましで、少しずつ越
谷の生活にも、学校で教えることにも慣れていきました。忙しくても、大変でも、とにかく楽しく充実した日々でした。
 その中央中で夫と出会い、越谷教会の礼拝に出席するようになりました。教会での説教や讃美歌、そこに集まる人達の謙虚なものの考え方に感動して、しばらくして、洗礼を受けました。そして八月のその夏一番の暑い日に、教会でたくさんの方に祝福されて結婚式を挙げることができました。
 それからは、家と学校と日曜日の教会と、という日々が続きましたが、二人の子どもが大きくなるにつれて色々なことがあり、そればかりではありませんが、私の教会への足は遠のき、現在は、月に一回ぐらい朝の第一礼拝に出席している状況です。
 学校では、少しずつ仕事に慣れてきているものの、色々な生徒と接することはとても難しく、ときには本当に悩むこともありました。そんな時、教会の礼拝で、話を聞きながらも、自分の気持ちを静かにゆっくり見つめ直して、「もう少し時間をかけて生徒を見ていこう…。」などと、心がおさまることがありました。
 私にとって礼拝は、ゆっくり自分の気持ちを考え、考えて余るときは、神様にお願いして、気持ちを軽くしてもらう、そんな時間でもありました。私が細々ながら教会と交わることができているのは、このようなことと、今は亡くなって、おりませんが、夫の両親のおかげだと思います。
(みつばさNo.234 11月号より)



  神の家族とされ                   鎌田 康子
越谷教会に赴任して二年目となりました。背後における祈りと温かいお励まし、お支えを感謝致します。
 キリスト教との出会い、教会に導かれた経緯について、書かせていただきたいと思います。直接のきっかけは小学五年の時、友人が教会学校に誘ってくれた事でした。当時、教会と言うと町のほとんどの人達は、駅前に大きな聖堂を持つカトリック教会をイメージしました。ステンドグラスにパイプオルガン、私もそのイメージで教会の門をくぐりました。一軒家を改造したような礼拝堂、小さいけれど確かに「日本基督教団赤羽教会」と看板が掲げられていました。「人生は出会いで決まる」(マルチン・ブーバーの言葉)と言われますが、まさに私の将来を左右する決定的な出会いの時となりました。
  私は教会に行く前、人間の「死」について考えていました。人間は何のために生きているのか。人間は死んだらどうなるのか。父は脳溢血で倒れ、三十六歳で亡くなりました。その死は、突然でした。真冬に水浴びし、乾布摩擦をし、元気を取り得として生きていた父だっただけに家族のショックは大きなものとなりました。母は悲しみに暮れる間もなく、長時間の肉体労働、借金の返済と追われながら、私(小学三年)と弟を育てました。今から二十五年前の出来事です。
 教会学校に通うようになって、私の生活は一変してしまいました。日曜日だけでなく、水曜日の祈祷会にも出席し、大人の方とも交流を深めさせていただきました。聖書の教理をはじめ教会生活について、難しい事は分かりませんでした。「居心地の良さ」を体で感じていたのでしょう。主礼拝が終わると、長老のお一人が必ず握手してくれたのを思い出します。あったかい手でした。包み込まれるような感触でした。孤独感を抱いていた時期でしたので、この事は私にとって、慰めとなり支えとなりました。牧師夫妻はじめ長老の皆様は、祈りのうちに愛と寛容をもって私を育てて下さったように思います。
紆余曲折ありましたが、背後で無数の祈りが捧げられてきたこと、神の恵みのゆえに今も生かされている事を忘れずに歩みたいと思います。
 教会には、乳児からご高齢の兄弟姉妹まで幅広い年齢層の方々が集われます。エフェソの信徒への手紙の中に「神の家族」という表現がありますが、主キリストを中心とした豊かな交わりが保たれますよう、その交わりの中で信仰の継承が着実に行われますよう祈ります。
(みつばさNo.233 10月号より)



BACK