主に生かされて

主の恵みの中で 岡田めぐみ
 私は福井県敦賀市という日本海に面した港町で生まれた。父は当時日本基督教団敦賀教会の牧師で附属幼稚園の園長、母は幼稚園の主任教諭として忙しい日々を送っていた。兄が二人いるが、年齢も離れており放って置かれる事が多かった。気がつくと扉一枚隔てた幼稚園に潜り込み、年上の園児達と対等にやり合ったり、時にはみんなと同等の扱いをして欲しいと言って先生達を困らせていたらしい。とにかく自由奔放で怖いもの知らずの子ども時代だった。
 小学校の高学年あたりからだろうか、私はかなり本気の反抗期モードに入ってしまった。クリスチャンホームで育った子どもならではの反発なのか、あらゆる事に不満を抱えつつ、礼拝に出席すること以外の選択肢を見つけられないまま、ただなんとなく教会生活を送っていた。
 私が高校入学の年に父が兵庫県の伊丹教会に招かれ、そちらでの生活が始まった。大阪のミッションスクールにも通い始め、田舎育ちの私にとって都会での生活は刺激的で楽しいことばかりだったが、神様との距離は遠くなるばかりだった。両親は礼拝を守ることに関してだけは厳しい姿勢を見せていたが、私が積極的に教会内で交わりを求めようとしない事や、受洗について否定的な事を言っても何も言わなかった。両親共に牧師の家で生まれ育っており、牧師の娘の気持ちは痛いほど分かっているからなのか、「自分の信仰は自分で求めよ」「時が来ればいつかは」という思いがあったからなのか、それは今でも分からない。
 しかし、その「時」は案外早くやってきた。きっかけは高校二年と三年の夏に参加した「献身キャンプ」だった。主に関西の高校生を対象にしたこのキャンプでの同年代の仲間との出会いは、私の心に大きな揺さぶりをかけた。参加者はクリスチャンホームで育った人が多く、中には神学校を目指している人もいたりして、すぐに打ち解け、教会生活の悩みや受洗についての考えを夜遅くまで話し合う機会が与えられた。そんな小さな交わりが私の心のガチガチに固まった何かを溶かし、神様の前で自分がいかに小さな者であるかを気付かせてくれ、大きく受洗へと導いてくれたのだった。
 あれから二十年近くの月日が流れ、結婚して与えられた二人の娘達は、毎週自転車を漕ぎ、楽しんで教会学校に通っている。夫は結婚後導かれクリスチャンとなり、今は越谷教会で長老の役に就かせていただいている。かつて、時には煩わしいとさえ感じたクリスチャンホームが今ここにある。神様の大きな力と恵みを感じずにはいられない。
(みつばさNo.238 3月号より)



主に任せて 小松久美子
 私は兄と二人兄妹で、兄が小学校に入る前に紫斑病になり、母は兄の病気を癒したい一心で教会に通うようになったと小さい頃から私は聞かされていました。
私の家は道路を隔てた隣りが教会で、数分もかからないで教会の玄関まで行くことができ、附属幼稚園に三年間通い、日曜日にもらう聖句入りのカードを楽しみに教会学校へも毎週のように行っていました。
 礼拝の中で讃美歌を歌うことも好きになり、小学校一年生の頃からピアノを習い始め、雨の日も雪の日もほとんど休むことなくレッスンのために先生の家まで通っていました。とても厳しい先生で私が手を叩かれた時は、鍵盤に手がおけない心境になったこともありました。そんな先生が、私が高校受験の一カ月前に入ると「レッスンは受験が終わるまでお休みにしましょう」と言ってくれたので、私はほっとしました。
 高校一年の時に長崎広海牧師より洗礼を受け、この時から教会学校での奏楽の奉仕が始まりました。毎週、まちがえないように必死で奏楽をしました。長崎牧師と牧師夫人が「一生懸命やって下さることを神様が喜んで下さっていますよ」と私を励まして下さり、私も喜んで奉仕することが少しずつできてきました。牧師夫人のゆり先生は附属幼稚園の主任教諭でもあり、私は小さい時からゆり先生のような先生になりたいという思いから短大へ行き、卒業後この幼稚園(若葉幼稚園、現在は残念なことに廃園)へ就職し、六年間ゆり先生と一緒に過ごさせていただきました。短大の頃からは、大人の礼拝の奏楽奉仕に専念することになり、自分なりに一生懸命練習して聖日礼拝に臨んでいました。
 私が結婚し、夫の会社が富士市だったので吉原教会に出席し、そこで自分にもできる奉仕をと考え、礼拝での奏楽をさせていただきました。数年後、越谷に転居し、家を建てたのですが、夫の転勤で二年間福島に住むことになり、福島新町教会に出席し、ここでも奏楽の奉仕をさせていただき、聖歌も賛美することができました。その間、越谷の家の管理のために月に一、二回はこちらに帰って来ていました。
 現在、越谷教会では中高科の奏楽と礼拝の奏楽、聖歌隊の奏楽を自分なりに頑張って奉仕させていただいていますが、私の力は微力で、すべて神様の力が私に働いて下さって、息を吹きかけて新しい命を与えて下さることを思い、これからもやっていけたらと思っています。
 賛美する心や喜びが音楽を通して豊かになり、神様の愛の中で、たとえ逆境の時でも賛美できる日々を過ごしていきたいと思います。
(みつばさNo.237 2月号より)



家族のこと         古澤ひかる
 クリスチャンホームに育ち、「日曜日は教会へ」があたり前だった。年の離れた姉と兄がいるが、二人とも教会内で伴侶を見つけ、一時はまさに一族揃って荻窪教会に通っていた。その内、母が協力教師として奉仕するために銀座教会へ移り、その後、姉と兄の両家族が自宅近くの教会へ、そしてしばらくおいて私が越谷教会に転会したので、今、荻窪に通っているのは父一人である。
 姉兄はいても年齢差のある末っ子なので、まるで親がたくさんいる一人っ子のような生活で、随分甘やかされて育ったように思う。特に、信仰告白をした20歳の頃など、今から考えると恥ずかしいほど生意気な態度で、当時牧会されていた福島牧師から「もう少し謙虚になりなさい」と諭されたくらいである。
 その前の高校時代には少し遅めの反抗期でしばらくの間教会から遠ざかっていたことがあった。そんな時両親は決して私を責めたりせず、何も言わずに見守ってくれていた。私が子どもを持った時、母が「子どもは親に待つことを教えてくれる」と助言してくれたが、それはまさに、母が私たち子どもに対して実践してきたことであり、特に私など、17、8になっても待たせ続けたのである。
 父といえば、受験や就職の時などもほとんど口出ししないような人であったが、私が母教会を離れる決心がなかなかつかず、結果的に両方の教会から足が遠のいてしまったときに、一言「人生狂うぞ」ときつい言葉をくれた。普段何も説教めいたことは言わないため、この一言は心に重くひびき、ぐずぐず迷っていた私の背中をどんと押してくれたのである。
 何か事があると、母はもちろんのこと、時には、姉夫婦、兄夫婦まで登場して、あれこれ言われ、閉口することもあったが、家を出て離れてみると、却ってそのことが懐かしく幸せな境遇だったのだなぁと感じる。
 それに引きかえ、自分は今、少しでも誰かの役に立っているのだろうか。自分が多くの人にそうされてきたように、誰かを励ましたり元気づけたりしているだろうか。
 40歳にもなると両親も年を取り、健康面でもいろいろ心配事が出てくる。また複雑な悩みを抱える友人もいる。その不安や悩みをたとえ解消することは出来なくても、少しでもその心に寄り添うことが出来たらと思う。神様から本当に多くのものを与えられているのだから。
(みつばさNo.236 1月号より)



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