主に生かされて

たいせつなのは… 高野 広子
 今、越谷幼稚園でお仕事をさせていただいています。
 高校生の時に同じクラスの子が、
教会に行っているという話しをきいて、その教会に行き始めたのが、今の自分につながっていくスタートになっているような気がします。そこでキリスト教に出合い、イエスさまを信じている人に出会い、イエスさまに出会うことができました。
 それまでキリスト教とは縁のないところで過していたので、色々なことが驚きでした。
 その驚きの一つが祈りでした。何かの集まりの時、それからたわいもないおしゃべりの後に、
「じゃあ、お祈りしましょうか」
と、言われ、ずいぶん、とまどいや違和感を感じました。本当にたくさん、他者に祈られる、祈ってもらえるという経験をしました。でもそのことになかなか慣れないところもありました。
 祈られるということについて、その意味、その重みに気がつかず、カルチャーショックの方が大きかったのかもしれません。祈られているということは、その時覚えられていることでもあるのかな…。漠然と考えたりもしました。
 最近、ある言葉を時々、思い起しながら過しています。
 その言葉との出合いは一冊の本からです。いもいようこさんという絵本作家の描いた表紙の本で
『マザー・テレサ 愛のことば』
という題です。
 あのマザー・テレサが語られた言葉に、やわらかく、あたたかいさし絵が添えられている小さな本なのですが、その中のある言葉が日々の生活のさまざまな場面で心の中をぐるりんぐるりんとまわり続けます。

たいせつなのは
 どれだけたくさんのことをしたかではなく
 どれだけ心をこめたかです

「どれだけ心をこめて…」この言葉に心がとらえられて、そうじゃない自分にはっとさせられたり、反省したり、そして、そうありたいと願ったり。
 言葉との出合い、人との出会い、色々なものとの出合いの背後に神さまを感じ、その意味について考えさせられ過ごしています。高校生の時に出会った友達からスタートした今につながる道。
 そして、今年も四月、新学期をむかえて子どもたちと出会わせていただきました。神さまに備えられた、たのしく、おもしろくパワフルな子どもたちとの生活の恵みを大切にすごしていきたいと思っています。
(みつばさNo.241 6月号より)

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  受洗して 門馬 義博
 我が会社の宣言「我らは天地創造したる神の教えにしたがいて・・・」と始まります。創立者でもあり、無教会派のクリスチャンでもありました、今は亡き、尊き方、鳥澤雷冶兄が38年前に蒔いた種が、2004年3月28日に石橋秀雄牧師より洗礼を受けた私です。23年の求道の時を経て、神のご計画どおりに最良の時に、実を結びました。「神様に感謝で御座います」。
 23年前を振り返りますと、クリスマス礼拝が終わり、その週の聖書研究会が、はじめての越谷教会への訪ねでありました。そこで、小海牧師より頂いた御言葉(ご計画に従って召された者たちには・・・)によっての信仰生活が始まりましたが、数ヵ月後に小海牧師から石橋牧師への引継ぎの時に。初対面の私に、石橋牧師は次の御言葉を下さいました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。私の事をご存知なのだ。この様な御言葉を下さる先生って、「すごい」「恐い」「鋭い」その様な感じがしました。その当時、私は病院通いをしてましたので(心に重荷を負っていました)。でも「ああそうなのか、私の弱い所に、神様が現われたのだ」その時は、まだ神様の存在が漠然とですが、心の奥に響き渡りました。
 此れからは、教会に連なることによりて、今の私を救って下さる事を、信じて越谷教会に通う求道生活が始まりました。時にはトマスの様に何事にも、見て、触れて、それで「主が共にいる」聖霊を体験しながら。常に自分の殻に閉じ篭りながら時には、石橋を叩いて渡り(先生ごめんなさい)、又はペテロの様に「主を見捨てて、逃げ去り」紆余曲折しながらの、神を求める歩みが始まりました。
 この程、神様に委ねて洗礼を受ける経緯は。苦渋の選択であった、長年勤めた会社の退職であり。又岩手県に住む妻の高齢なる両親との暮らしであり。これらすべての事をご存知の神様に、信仰を持って、ゼロからの出発として「神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、・・・信仰を盾として取りなさい。」(エフェソ6章13節)この御言葉によって生れ変わりたいと。
 アブラハムの召命と移住の様に(そんなに大袈裟な事では無いのですが)、まだ勤め先も決まらないままに、未知の地への、旅立(山路こえて)をなんの迷いも無く、神様に身を任せました。これからは日々、外に向かって、「私には、いつも主が共にいます」。いつも喜んで、感謝をもって、声高らかに宣言が出来る事を、越谷教会員の皆様、鎌田先生、ここまで導いて下さいました石橋秀雄牧師、それから御家族に感謝申し上げます。越谷教会の上に神様の豊かな祝福があります様に、遠くの地よりお祈りいたします。アーメン
 復活祭主日礼拝に大船渡教会(牧師吉田眞)に出席致しました。引越しも落ち着きましたので。これからは妻(カトリックの信徒)と一緒に礼拝を守ります。
(みつばさNo.240 5月号より)
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  支えられて  須賀 工
 私にとって越谷教会は家のようなものです。幼児の頃から越谷教会に行き、今に至っています。夏にアメリカから帰国し、日曜日にこの教会の十字架を見つめると気分が落ち着き、日本に帰って来た感じが増します。
「私にとって越谷教会は家のようなものです」と述べました。ならば、私にとって越谷教会の皆様は家族のようなものです。皆様のお祈りに支えられ私は、今まで教会の中で主と共に生きてこられたのだと思います。アメリカに行った時に頂いた皆様からの寄せ書きの事を思い出しました。そこには、沢山の応援メッセージと共に「お祈りしています」という言葉がありました。お祈りをしてくださった皆様に心から感謝します。それと、私がこの家族と出会えた事、この家に導いてくださった事を神様に心から感謝します。
私にとって神様は・・・のようなものです。恥ずかしいことに実は、私にはこの言葉の的確な答えがまだ見つかっていません。私は、幼児の頃から教会に行き、皆様と接し、聖書を読み、今は教会に奉仕して仕えることに本当の喜びと感謝を感じるようになりました。それらのことが当たり前のようになり毎日を暮らしていました。しかし、目の前にある一番近くにある大事な事に気づきませんでした。
「天にまします、我らの父よ」から始まる主の祈りで神様は私達の「父」だと述べています。使徒信条には「全能の父なる神」という言葉もあります。イエス様は「アバ(お父ちゃん)」と神様を呼びました。ヨハネの手紙Tには「神は愛」と述べています。詩編の詩人は神様を「避けどころ」や「羊飼い」などと呼びます。聖書には、沢山神様の呼び名が出てきます。どの言葉を見ても私達にとっては大切な神様を意味します。それらの言葉にはそれぞれの時代の状況や環境が理解でき、神様は私達がどのような状況にあっても私達の近くにいてくださることが分かります。
「私達にとって神様は何なのか」という質問の答えは、とても大切で難しい質問です。しかし、私達の周りの状況によって「私達にとっての神様」は変わっていくのだと思います。困難な中に生きている人は、神様を憎むべき者とはせずに、困難から逃げるための「避けどころ」として祈るでしょうし、喜びの中に生きている人は神様を「愛してくださる方」と呼ぶでしょう。
 日曜日の礼拝で私達は、常にいろいろな神様を学ぶことが出来ます。説教を聞いて、「私にとって神様は・・・」という質問を自分に問いただしてみてはどうでしょう。毎週違う答えが出ても、おかしくはないと思います。そして、段々と答えが固定されていき、自分にとっての神様が何なのかが分かっていくのだと思います。   
(みつばさNo.239 4月号より)

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