越谷幼稚園ありがとう!
高田美由希
 越谷幼稚園と出会う前。それは神様を知らない20年でした。私が神様を知らなくても、神様は私の事を御存知で、多くの恵みを受けていました。一番の恵みは家族です。父と母と二人の姉に愛され、私は愛に飢える事は一度もありませんでした。
 小さい頃、父が「もう一人の家族だよ」と言い、少し肌の色の黒い女の子が写っている写真を見せてくれました。父は貧しい国の少女の里親になり、援助をしていたのです。
 今思えば、神様は私の歩む道を準備して、私をそんな心を持った両親の子どもとして生まれるようにして下さったのでしょう。
 昨年の夏、姉に誘われ、インドのマザーテレサの施設でのボランティアツアーに参加しました。
 マザーの施設は衝撃的でした。日本の赤ちゃんに比べると本当に小さく軽い赤ちゃんが、抱っこをしてもらいたくて、大人を見ると細い腕を力一杯のばします。そして抱っこをすると小さな手が、服を握り締めて離しません。けれど、後で話を聞くと、この施設では、宗教的な理由から、抱っこをしないで育てるそうです。でも、そこにいる赤ちゃん達は抱っこを求めていました。生まれてすぐに捨てられ、抱っこをされないで生活している赤ちゃん。でも赤ちゃんは、抱っこをしてほしくて、愛されたくて手をのばします。人間にとって抱っこは本能でした。
 その時、思いました。私は何もできないけれど、抱っこをする事ならできる。この小さな命を、捨てられた命を、愛する事ならできる。力の無いこんな私でも、この子達の喜ぶ事ができるのなら、私は一日中だって、抱っこをしたい…。涙が止まりませんでした。
 私は、マザーテレサを大好きな日本人が建てた、レインボホームという孤児院へ行きます。私がインドへ行く事を知った人達は、素晴らしい志だ・凄い・尊敬するなどと、沢山ほめてくれました。でも、ごめんなさい。そんなにほめてもらう程、私はちっとも凄くありません。
マザーテレサの言葉です。「私達は貧しい人達に奉仕をしているのではありません。最も大切な生命に直接ふれる喜びを、私達がいただいているのです」。私は、自分の喜びをもらう為にインドへ行きます。ホームの子ども達を愛する事で、一番の喜びをもらっているのは私です。
「よく決心したね」と言われます。でも決めたのは私ではありません。神様です。私はただ、神様が備えて下さる道を歩んでいるだけなのです。
(みつばさNo.250 3月号より)



   一粒のからし種
豊田 直子
 「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
(マタイ13章31〜32節)

 五年前越谷教会へ転会したとき、石橋牧師は一粒のからし種についてお話されました。からしと言うと、おでんやシュウマイに、また洋風だとサンドウィッチにハムやチーズと一緒にはさむのが大好きです。
 まだまだ実を結ぶまで行っていませんが、越谷教会で石橋牧師と由美子先生を始め、皆様の暖かい笑顔とお祈りに支えられてここまで来れた事を心より感謝申し上げます。幸い越谷教会には育児のプロフェッショナルが多くいらして私が子育てに戸惑いを感じていた時、適切なアドバイスを下さったり、思いっきり隆志と遊んで下さって心から重荷をはずされる思いでした。どうも有難うございました。
 昨年4月22日に、鎌田先生の母教会である赤羽教会の深谷美歌子牧師に、結婚相手として岡崎次夫さんを紹介して頂きました。お会いする前鎌田先生にこういう方とお会いする予定ですと伝えたら、「たくさんお祈りしちゃお!」といつもの笑顔で明るくおっしゃったのを思い出します。
 お亡くなりになられる前の日曜日、白い上下のスーツを着られて颯爽と二階の図書室に入って行かれたのをホールより拝見しました。息子のお礼拝が終わったら「とても良い方でした」と報告しなくちゃと思いながらしそびれていた事を最近まで後悔していました。「鎌田先生有難うございました」天国できっと喜んでいて下さっていると信じます。
 越谷教会では様々な教会の行事でピアノやオルガンを弾かせて頂き感謝でした。一日外で働いて家事や育児をし、子どもが寝た後練習をする時とても心が和みました。日曜の朝起きて今日こそサボろう!と決心すると、あっ奏楽の日だと省みさせられ、それで殆ど休みなく日曜日の礼拝に出席できました。なんと言う神様のご計画だったのでしょう!
 皆様本当に有難うございました。越谷教会の為に、また皆様お一人お一人の上に主が共におられます様にお祈り申し上げます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
(みつばさNo.249 3月号より)



   導 か れ て
岡田 浩幸
 キリスト教の信仰を持たない両親の下に生まれ、父は毎朝欠かさず仏壇へのお供えと神棚・仏壇の順に手を合わせて仕事に出掛ける、そういう姿を見て育ちました。ずっと越谷で生活していて家族で久伊豆神社にはよくお参りに行きましたが、そのすぐ近くに教会があるとは6年前まで知りませんでした。
 特にキリスト教を意識せずに聖学院高校に進学して初めて聖書を開き、讃美歌を歌いました。キリスト教の授業で礼拝に出席してレポートを提出すると言う課題があり、初めて教会に行き、礼拝に出席しました。初めて行った教会は目白教会だったと思います。
 牧師の話は難しく感じましたが、礼拝が終わった後も身をかがめて一人熱心に祈っていらっしゃる方がいたことが強く印象に残っています。また、先生に勧められるままに三浦綾子や遠藤周作の本を読みましたが3年間の高校生活で神様の恵みを自覚すると言うことはなかったように思います。
 長野県の大学に進んでからは一度だけ上田新参町教会の礼拝に出席したことはありましたが教会に行くのはかなりの勇気がいることでした。
 特にキリスト教を意識せずにキリスト教主義の経営方針を掲げる社会福祉法人に就職し、そこで妻と出会ってから妻のお供で東大宮教会の礼拝に出席するようになりました。牧師と個人的な話をしたわけでもないのに講壇から直接私に向かって語りかけていると思うような、私の存在を包み込むような説教を何度も体験する中でキリスト教の信仰につながりたいと強く願うようになり、1997年のイースター礼拝で山ノ下牧師に洗礼を授けていただきました。
 その後、加須市から越谷市に引越してすぐに越谷教会の群れに迎えていただき、家族揃って越谷教会の礼拝に出席できる恵みを感謝しています。越谷教会の規模の大きさに最初はかなり圧倒され、教会の持つ雰囲気の違いにも戸惑いを覚えました。何となく違和感を覚えつつ主礼拝に出席し、説教を伺い、ノートにメモした説教を読み返す生活を重ねる中で気がついたことは、(私自身が教会に求めているものが何であったとしても)教会はいつも聖書に示されているイエス・キリストの福音を伝えていると言うことでした。

「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」(使徒言行録3・6)

 自分の罪の中に座り込むことの多い者ですが、神に向かって立ち上がり、神に生きる者とされることを祈りつつ教会生活を続けていきたいと願っています。


(みつばさNo.248 2月号より)
   


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