祈ること |
Y.F |
私の職場では、毎朝スローガンを唱和しています。同じ文章を毎日毎日口にしていると、いつしか中味を考えずに、唱えるだけになってきます。 ところが、教会で礼拝毎に唱和している「主の祈り」は、粛然と心に響いてきます。慣れに流されず、ひとりひとりが一行一行に新たに思いを致し祈っていることが伝わってきて、そこに和することができる喜びを感じます。日によりテンポが多少違い、ゆっくり目な方が私の好みです。主の祈りに自分の好みを主張してどうすると言われそうですが、早いと職場のスローガン状態、言葉だけになりそうで怖いのです。 私は子どもの頃から、キリスト教に親しみを持っていた割には、祈ることは日常の習慣にはなっていませんでした。実を言うと今現在も、習慣になっているとは言い難い状況です。祈りの途中で想念の海に漂っていってしまうこともあります。たまに「思うことをそのまま祈る」ことができた時には初心者マークつきではあるけれど、ほっとします。いずれは先輩方のように、呼吸するように自然に祈ることができるようになるでしょうか。 願うばかりの「請求書の祈り」だけではいけない、感謝をする「領収書の祈り」であるべきだという言葉を、本で読んだことがあります。面白い表現です。ですが神様の限りない御恵みの前にあっては、願うことを素直にそのまま祈るとしても、許されるのではないかと思うようになりました。 一月七日に孫が生まれて現在新米ママともどもてんやわんやの日々を送っています。生後1ヶ月に満たない赤子の顔を見ていると祈る言葉も自分自身の狭い願いではなくなります。 「天の父なる神様、私たちが住むこの世界が、幼な子が成長するのにふさわしく、平和で安全でありますように。アーメン」 |
(みつばさNo.270 2月号より) |